死者・行方不明者2万2千人を出した東日本大震災から、今日で10年です。
ついこの間のことのように感じている私は、もうそんなに経ったことに愕然としています。今なお避難生活を送られている方が4万人もいらして、原発爆発事故を起こした福島には依然として立ち入れない区域があって、廃炉にはあと30年はかかると言われているのだから、まだ今も震災は続いていると言えます。・・・ なのに夏にはオリンピックだなんて?
大体、「復興オリンピック」と言うのもおかしいですよ。被災地のかさ上げ工事が終了し、住民が戻ってきて、その生活が賑わいも戻し、福島のどこでもまた人が住めるようになって初めて、「復興オリンピック」というものが開けるのではないでしょうか。
オリンピック会場を作るために、工事をする人が被災地から引っ張り出されている現実は、復興を妨げるオリンピックなので、本末転倒です。オリンピックを開いても、被災地の人たちが喜ぶという気が私はしません。もし私が福島の原発近くに住んでいた人だったら、自分だけがどんどん浮かれた世の中から取り残されていくようで、悲しく孤独に感じると思います。オリンピックよりも被災地支援でしょう。
そこへこのコロナ禍。世の中は浮かれていられなくなりました。
私は戦後生まれで、平和な時代に生きることができて幸運だったのかな、と思っていましたけど、そんなことはなかったですね。東日本大震災が起こり、コロナが蔓延し、首都直下地震だって明日起こるかもしれません。勿論戦時中の、明日の命さえ脅かされた日々に比べたらずっといいのでしょうが、今も結構大変な日本だと思います。
オリンピックやパラリンピックは、できるわけがないと思うのだけど、「人類がコロナに打ち勝った証としてのオリンピック」と言うスガさんは、本気でそう思ってるのでしょうか。これこそ「砂上の楼閣」なんじゃないでしょうか。オリンピックの準備をすればするほど、本来使わなくて良かった予算やエネルギーが使われてしまう気がして、苦い気持ちです。どう見たって、世界中コロナを収束させるまで時間がかかるのに、どうせ中止(もしくは延期)になると思うのに、政治家たちは本当にオリンピックができると思ってるのでしょうか。いつか誰かが「やっぱり無理ですよ、やめましょう、やめましょう。」と言い出すと思って待っているのだけど、まだ誰も言い出しません。政治家1人1人に、正直な気持ちを聞いてみたいです。とにかく、その予算とエネルギーを、コロナ対策、被災地対策に向けて欲しいです。
オリンピックとパラリンピックの選手は気の毒なので、いつかコロナが収束したら、今回出場するはずの選手たちで特別なオリンピックを開いたらどうでしょう。年齢を重ねて、選手は皆同じ条件なので公平です。記録だけは落ちると思いますが、それは仕方ないです。
下の写真は、2015年10月に石巻を訪れた時の写真です。ガラケーで撮ったので、画質は悪いです(私はいまだにスマホではなく、ガラケー愛好者です)。
撮ってくれたのは、映画監督の宍戸大裕さん。
お忙しい宍戸さんですが、たまたまその時アニマルクラブ石巻にいらしたので、アニマルクラブ石巻の車を借りて私を津波被害の大きかった南浜町のあったあたり、高台の日和山(ひよりやま公園)、そしてアニマルクラブ石巻まで運転して連れて行って下さったのでした。(アニマルクラブ石巻は、宍戸さんの映画『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』に出てくる、犬猫保護団体です。)
宍戸さんのHP → http://www.daifilm.com/index.html
アニマルクラブ石巻さんのHP → http://a-c.sub.jp/
私がここを訪れた時は震災から既に4年半経っていたのですが、更地で何もなく(「がんばろう!石巻」の看板と、「津波はこの高さまで来ました」という白い棒が建ってるだけで)、セイダカアワダチソウなど雑草が風に揺れているだけでした。 ただ工事の車だけ走ったり作業したりしていて、殺風景で寂しく、かつてここに住宅が立ち並んでいたのを想像するのは難しかったです。
でも歩いていてふと視線を落とすと、どこかのお宅の表札が落ちていて、さすがにそれを見た時は胸が詰まりました。 小さな祠(ほこら)と木が、雑草の中に残っているのが不思議でした。
今日テレビでこの辺りが写りましたが、私が訪れた頃に比べれば、随分整備が進んだ感じですが、その地域は人は今後も住めないそうです。そしてこの「がんばろう!石巻」の看板のあたりは、「石巻南浜津波復興祈念公園」として整備され、今月28日に開園する予定だそうです。
この大震災でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りします。
それぞれの方には、翌日も続いていくものとして疑っていなかった生活があり、これからの夢があり、大切な家族や友達がいたこと。
そういうことに、今生きられている私達は思いを馳せ、この命があるのはたまたま幸運であり奇跡であり、いつなくなってもおかしくないのだ、と思うべきです。
だから1分でも疎かにすることなく、感謝して、大切に生を刻んでいくことです。
生きたくても生きられなかった方がたの分まで。
その方がたの思いとともに。
ついこの間のことのように感じている私は、もうそんなに経ったことに愕然としています。今なお避難生活を送られている方が4万人もいらして、原発爆発事故を起こした福島には依然として立ち入れない区域があって、廃炉にはあと30年はかかると言われているのだから、まだ今も震災は続いていると言えます。・・・ なのに夏にはオリンピックだなんて?
大体、「復興オリンピック」と言うのもおかしいですよ。被災地のかさ上げ工事が終了し、住民が戻ってきて、その生活が賑わいも戻し、福島のどこでもまた人が住めるようになって初めて、「復興オリンピック」というものが開けるのではないでしょうか。
オリンピック会場を作るために、工事をする人が被災地から引っ張り出されている現実は、復興を妨げるオリンピックなので、本末転倒です。オリンピックを開いても、被災地の人たちが喜ぶという気が私はしません。もし私が福島の原発近くに住んでいた人だったら、自分だけがどんどん浮かれた世の中から取り残されていくようで、悲しく孤独に感じると思います。オリンピックよりも被災地支援でしょう。
そこへこのコロナ禍。世の中は浮かれていられなくなりました。
私は戦後生まれで、平和な時代に生きることができて幸運だったのかな、と思っていましたけど、そんなことはなかったですね。東日本大震災が起こり、コロナが蔓延し、首都直下地震だって明日起こるかもしれません。勿論戦時中の、明日の命さえ脅かされた日々に比べたらずっといいのでしょうが、今も結構大変な日本だと思います。
オリンピックやパラリンピックは、できるわけがないと思うのだけど、「人類がコロナに打ち勝った証としてのオリンピック」と言うスガさんは、本気でそう思ってるのでしょうか。これこそ「砂上の楼閣」なんじゃないでしょうか。オリンピックの準備をすればするほど、本来使わなくて良かった予算やエネルギーが使われてしまう気がして、苦い気持ちです。どう見たって、世界中コロナを収束させるまで時間がかかるのに、どうせ中止(もしくは延期)になると思うのに、政治家たちは本当にオリンピックができると思ってるのでしょうか。いつか誰かが「やっぱり無理ですよ、やめましょう、やめましょう。」と言い出すと思って待っているのだけど、まだ誰も言い出しません。政治家1人1人に、正直な気持ちを聞いてみたいです。とにかく、その予算とエネルギーを、コロナ対策、被災地対策に向けて欲しいです。
オリンピックとパラリンピックの選手は気の毒なので、いつかコロナが収束したら、今回出場するはずの選手たちで特別なオリンピックを開いたらどうでしょう。年齢を重ねて、選手は皆同じ条件なので公平です。記録だけは落ちると思いますが、それは仕方ないです。
下の写真は、2015年10月に石巻を訪れた時の写真です。ガラケーで撮ったので、画質は悪いです(私はいまだにスマホではなく、ガラケー愛好者です)。
撮ってくれたのは、映画監督の宍戸大裕さん。
お忙しい宍戸さんですが、たまたまその時アニマルクラブ石巻にいらしたので、アニマルクラブ石巻の車を借りて私を津波被害の大きかった南浜町のあったあたり、高台の日和山(ひよりやま公園)、そしてアニマルクラブ石巻まで運転して連れて行って下さったのでした。(アニマルクラブ石巻は、宍戸さんの映画『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』に出てくる、犬猫保護団体です。)
宍戸さんのHP → http://www.daifilm.com/index.html
アニマルクラブ石巻さんのHP → http://a-c.sub.jp/
私がここを訪れた時は震災から既に4年半経っていたのですが、更地で何もなく(「がんばろう!石巻」の看板と、「津波はこの高さまで来ました」という白い棒が建ってるだけで)、セイダカアワダチソウなど雑草が風に揺れているだけでした。 ただ工事の車だけ走ったり作業したりしていて、殺風景で寂しく、かつてここに住宅が立ち並んでいたのを想像するのは難しかったです。
でも歩いていてふと視線を落とすと、どこかのお宅の表札が落ちていて、さすがにそれを見た時は胸が詰まりました。 小さな祠(ほこら)と木が、雑草の中に残っているのが不思議でした。
今日テレビでこの辺りが写りましたが、私が訪れた頃に比べれば、随分整備が進んだ感じですが、その地域は人は今後も住めないそうです。そしてこの「がんばろう!石巻」の看板のあたりは、「石巻南浜津波復興祈念公園」として整備され、今月28日に開園する予定だそうです。
この大震災でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りします。
それぞれの方には、翌日も続いていくものとして疑っていなかった生活があり、これからの夢があり、大切な家族や友達がいたこと。
そういうことに、今生きられている私達は思いを馳せ、この命があるのはたまたま幸運であり奇跡であり、いつなくなってもおかしくないのだ、と思うべきです。
だから1分でも疎かにすることなく、感謝して、大切に生を刻んでいくことです。
生きたくても生きられなかった方がたの分まで。
その方がたの思いとともに。