相模原市のやまゆり園で、入所者19人が殺害された事件から1年。
犯人の植松被告は、いまだに自分のしたことを後悔していないそうです。

1年経っても考えが変わらないなら、事件が起きるのを事前に阻止することは難しかっただろう、と思わざるを得ません。今日のような大雨が犯行当時に降っていたとしても、きっと彼には犯行を延期する理由にはならなかったでしょう。

なぜなら植松被告の場合は、逮捕されることはわかっていながら尚も行為に走ったわけですから、もうそこには非常に強い意志があったのです。犯行後1年経っても、変わらないような意志が。それは、「障害者は生きていても不幸しか作ることができない。」と信じる、間違った考え。

そんな人は日本で1人であり、何かの間違いでそういう人が生まれたのだ、もうこういうことは起きない、と思いたいのですが、彼に共感する人がいる限り、第二、第三の植松は出てくるでしょう。

なくならない学校でのいじめにも、同じ構造が見られます。今日も北九州市の女子高生が、おそらくいじめが原因で4月に自殺していたというニュースがありました。
自分は危険の及ばない高見にいて、気に入らない人をいじめたり排除したりする行為は、とてつもなく卑怯で醜い。

自分が排除される側、差別される側にならないように画策しつつ、排除し差別する。
先日亡くなった日野原重明さんの言葉、「困っている人を助けるために生きる」ということから遠く離れた行為です。それがわからないのが、愚かですし残念です。わかるようにするのが教育なのに、教育の場でいじめが起きているということは、矛盾しています。

人間は本当は誰もが同じ側に立っているのに、あえて川向うに立ってこちらを差別し、排除し、はやしたてる。なんのために?そこに何の意味があるのでしょう。むなしいことです。川向うに、あるいは高見に立って他を差別する人がいる限り、悲惨な出来事はなくならない。

夫が障害者になってわかったことは、差別する人だけでなく、傍観している人もいるということ。
その傍観者の数はとても多く、傍観していることはすなわち差別する人と同じ側に立っている、ということすら認識していないことが問題です。

人は助け合うもので、困っている人を差別したり排除したりするのはもってのほか。その人の力になってともに仲良く生きて行かないと。

本日分のブログを投稿する時間になり(あと5分)、まとまっていないのは重々承知していますが、障害者も健常者も、老若男女、誰もが笑顔でいられる社会になりますように。 これは最近の私の講演タイトルにしています。また、日本障害者リハビリテーション協会発行の『月刊ノーマライゼーション』7月号に寄稿した文章のタイトルは、「望むのは、傍観しない社会」です。

亡くなられた19人の方々、いじめで自殺してしまわれた方々のご冥福をお祈りします。
そして、これからはそういう不幸な事件が起きないよう、私たちは傍観するのではなく、手を差し伸べたり適切な対策を取らなくては・・・。