日々コウジ中

日々コウジ中 - クモ膜下出血により、さまざまな脳の機能不全を抱える“高次脳機能障害”になったコウジさんを支える家族の泣き笑いの日々

2013年05月

昨日は実家に行って、地域包括センターの方とこれからの流れについて、色々な話をしました。

 

21日に区役所から介護調査員の方が来て、それからケアマネさんが決まって、プランを立ててもらって、サービスを受け始めるのはそれからの方がいいそうです。 今は要支援1なので、要介護になるとケアマネさんもサービス内容も変わるからと。 う~ん、わからないことがいっぱい。 でも教えてもらえて助かります。

 

近所に昨秋できたばかりの機能訓練特化型デイサービスがあるので、そこに送迎で通えたらいいですね、と話し合いました。

それまでは父は、医師に言われたように座布団の上で足踏み運動しています。

 

父は私が買っていった介護エプロンを喜んでかけ、同じく買っていったストロー付きマグカップで、お茶を飲みました。

 

へりが垂直に立っているお皿はイマイチ気に入らないようなので (それでは食べ物が外にこぼれる、と感じるそう。)、やっぱりへりが内側にカーブしたお皿を注文しましょう。

そっちは高いのでやめたんですけど、使い易い方がいいですからね。

 

色々ありますが、父のことはこのくらいで、ワッチの話を。 (コウジさんの話も、またまとめてしますね。) ワッチは今学寮です。

 

一昨日から出かけましたが、2週間くらい前から、服やらタオルやら、持ち物を買い揃えたりパッキングが大変でした。 直前の前日夜に髪を切りに行ったり (洗ったら乾きやすいように。 ドライヤー持って行ってはいけないのです。 なんでかしらね。)、2人でてんやわんやで、最後はケンカして別れました。

 

ああ、疲れた。 その疲れから回復するのに1日かかり、昨日は実家で、今日はバルコニー改築の話で業者の方が来て・・・。

 

月曜日には午前と午後に2回、業者の方が家に来ましたが、やはり両親が言うのも納得。

 

人が家に入るのは、たしかに疲れるものですね。 特に高齢の両親は、余程疲れることでしょう (昨日も母は疲れから持病の喘息を起こして、ヒュウヒュウ言ってました)。 私も思い起こせば2年前、新聞社やテレビ局が家に何度も来た時は、相当疲れました。 疲れすぎて疲れがわからなくなって、いつのまにか乗り切っていましたが。

 

体制さえ整えば後は楽だと聞きますので、この1、2か月は両親にも辛抱してもらわなくちゃ。

あれはいつの頃だったかなあ。

 

私が小学5、6年生の頃だったか、あるいはもっと前だったか。

 

学校から自分の家に帰る道に、壁というか崖というか、それが左側に高くそびえた場所がありました。

 

横浜は山ばかりですから、山越え谷越え小・中・高・大学・会社へと通学・通勤したのです。

 

当時住んでいた公団住宅は南区の山の上にあって、4階の我が家のベランダからは富士山も見えましたし、遠く磯子の方まで見渡せました。

ちょうど目が悪くなってきた頃で、「自分はどこまで見えるのだろうか」、とベランダに出ては磯子方面の建物を目をこらして眺めるのが日課でした (残念なことに視力低下はその後もどんどん進み、今は両目とも0.02くらいです)。

 

とにかくその崖を見上げながら私がいつも思っていたことを、今でもよく覚えています。

つまり、「自分は忍者のように身軽だから、こんな崖くらいヒョイヒョイ登っていける。 でも今は人目があるからやらないだけだ。」 と。

 

私は今からはとても想像できませんが体操が得意な子どもで、床・鉄棒・跳び箱 が大好きでした。

団地の芝生で側転や転回を、公園の鉄棒で難しい危険な技をいくつも、日が暮れるまで友達と練習していた相当なお転婆娘でした。

だから高い壁を登るのなんかお茶の子さいさい、と本当にそう思っていたんですよね。

 

子どもというのは怖いもの知らずというか想像力豊かというか・・・ いい時代だったなあ、と思います。

 

横浜は今はもう随分開拓されて変わりましたが、40年も前は山ばかり。 団地から山を降りていったすぐのところには沼があって、ゲンゴロウやミズスマシも泳いでいましたし、私はザリガニを男の子達に混じって釣っていました。 家から持ってきた父のお酒のおつまみのスルメイカを、さいて糸の先に結びつけて釣りましたが、男の子達はスルメイカが足りなかったのか、残酷にも釣ったザリガニを2つにちぎってそれを餌にしていました。 いまだに思い出すと悲しくて胸が傷みます。

 

クワガタもいましたし、崖を掘るといきなり大きなムカデが飛び出してきて、私達は「キャ〜!」っと叫んで逃げましたっけ。

自然豊かな場所で子ども時代を過ごさせてくれた両親に、とても感謝しています。

 

それにひきかえワッチは都会育ちにしてしまい、自然とは無縁のまま16歳にさせてしまったことを、実は申し訳なく思っています。

コウジさんが倒れてから余裕のない生活で、自然と触れ合う機会も与えてあげられないまま、家族旅行も何年もしていません。

 

・・・ と、話がどんどん逸れていくので最初に戻しますと、そういう風に子ども時代は何でもできそうな楽しさがあったのです。 無責任でいられたし、「人生とは」、なんて考えることもなかったものね。

 

中学くらいから段々違ってきましたが (私はおくてだったので、早熟な人は小学生の頃から色々考え出しているかも)、大人になると、なんと不自由なことか。

 

例えば 「どこか異国とはいわずとも田舎に住みたいな」、と思っても、コウジさんが会社へ通えなくなる、ワッチの学校はどうなる、親から離れるのは心配でできない (今は尚更) などを考えると、その願いは非現実的で無理無理 (イラスト仕事ならどこでもできるんだけど)。

 

うまく工夫して自由に生活している大人もいますけど、大概の人は義務と道徳と慣習と便利と限られた金銭範囲の中で暮らしている、のかな。

 

まずい、最近後ろ向きになっている!

 

それでも、過ぎ去りし子ども時代を懐かしく羨ましく思うことが、時々あるのです。

 

ああ、つくづく遠くにきたもんだ・・・

重なる時は重なるもので、リアルコウジ村を立ち上げてから父のパーキンソン病の進行に気づき、ただでさえいつもあたふたしている私に、家のバルコニーの改築の問題も持ち上がってきました。

 

我が家は築15年目に入り、そろそろあちこち傷みが出始めています。 特に木製のバルコニーは、風雨や直射日光に晒され、ボロボロになってきました。

 

本当は10年目くらいで補修する予定でしたが、コウジさんが築5年目の時に倒れてしまったのでそんな余裕 (金銭的・精神的共に) はとてもなく、工務店も我が家の状況を知って (『日々コウジ中』 を差し上げました。)、補修催促もしないで下さったので、ここまで老朽化が放置されてきました。

 

けれどさすがに工事しなくてはならない状態になって年末に大まかに見積もってもらっていたのを、実際に大工さんが見に来たのがこの月曜日。

 

そして今日また大工さんは、塗装担当のペンキ屋さんを連れて来ました。

話の流れ上、コウジさんがくも膜下出血から高次脳機能障害というものになったことをペンキ屋さんにも説明しましたが、「全然わかりませんね!」と驚かれました。

 

しかしその後コウジさんが 「・・・としますと、大体おいくらいになりますか?」 という質問を3度もしたり、大工さんが 「これとこれを合わせるとこのくらいの金額になる」 と言ったその直後に、「これとこれを合わせると、どのくらいになりますか?」 と聞くのを大工さんが 「だからそれが今謂った値段です」 というようなちぐはぐな会話をするのを、キョトンと見ていたペンキ屋さんは、この障害を少しわかってくれたようでした。

 

とにかく、庭のない我が家にとってはこのバルコニーが、私達人間のみならずウメやおはぎちゃんにとっても、敵の来ない安全で快適な外空間なので、床が抜ける前には工事してもらわなくてはなりません。

 

コウジさんは家のローンがあと何年でいくら残っているか、無関心ですし覚えられないので、こういうお金が関係するやりとりも全て私がやるのです (当たり前ですよね。 皆さんちもそうでしょう)。

 

でも何かあるたびに、「オレ、いなくていいんだろ?」 と逃げるのにがっかり。 「あなたは家主なんだからいなきゃダメ! (私が話すにしても)」 と逃がしませんが、こういう部分、9年近くたった今も一向に変わりません。 それにしても、ローン支払いはあと21年も続くのだよ。 しんどいなぁ〜。 でも頑張って返さなくちゃ。

 

今日は近所の介護ショップで、ストローつきマグと食事用エプロンを買い、お店になかったお皿 (内側にへりがカープしたもの) を、カタログを見て2種類取り寄せました。

 

そのお店で午後4時までに注文すると、翌日昼には届くんだそうです。 すごく早くて助かる〜!

来週水曜日にまた実家に行く時に、マグとエプロンとお皿を持って行けて嬉しい。 うまく食べられない父は痩せてきているので、これでまたしっかり食べてくれますように。

 

母は、「こっちのことに余り関わらないでいいから、自分の家のことをしっかりやりなさい。」 と言ってますけど、やりたいし、やらなきゃいけないし、やるのが当たり前でしょう。 あとは、親に負担を感じさせない関わり方をしなくてはね。

 

今日はバルコニー工事が、結局いくらになるかわかりませんでしたが、ヒヤヒヤです・・・。

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ハタチになったのは、我が家の猫おはぎちゃん。

人間でいうと、96才とか105才とか、ネットにありました。

 

長生きで嬉しいです。 毎日5缶は猫缶食べて、健康そのものですが、ただ後ろ足関節がかたくなってきたせいか、歩くのがゆっくり (ベランダに飛んできたカラスと喧嘩することもありますが)。 一日中大体寝てますが、家族に時々甘えてスリスリしてきたり、ニャ〜ンと鳴いたり。  おとなしい猫です。

 

たまに私の枕元に来て、一緒に寝てくれます。 ゴロゴロ言うのが私にとっては子守歌。  来年の誕生日も、元気でいてくれますように。

 

今日は横浜の地域包括支援センターに電話して、今後の相談をしました。

区役所から再来週あたり調査員が来る前に、来週父の様子を見に来てくれることになりました。

機能訓練特化型デイサービスの紹介もしてくれましたが、実家のすぐ近くでした。

母に電話すると、明日見てくるそうです。

段々動き出しました。

 

でも私も思ったことですが、母も「 老々介護だと、2人ともぼけちゃうわね。」 「若い人がいないとダメね。」

 

昔は大家族だったから、良い面もいっぱいあったのでしょうね。 でも人手がないならないなりに色んな人に助けてもらいながら、1日でも長く元気で過ごせるよう頑張りたいものです。

高次脳ブログなのに、最近パーキンソンブログになっていてすみません。

 

昨夜12時過ぎまでワッチの宿題手伝い、朝は5時起きでお弁当作り、ゴミ出し、洗濯、で時間なくなり、朝の15分で慌ててここ6週間の父の急激な衰え (4月15日の救急搬送も含め) の様子をパソコンで書いて、2部印刷して家を飛び出しました。

 

9時半に横浜の大学附属病院に着いて、両親と合流。 医師に見せる前に両親分を渡すと、それを先に読んだ母がまた怒る。

 

「こんな悪いこと書いてあるわよ!」 と父に読みあげると、父は 「その通りだよ。」 と。 「え!」 とびっくりする母。

母は、父の状態の悪さを理解できていないことがわかる。 益々母に任せてはおけない、と実感。

 

医師も、父の様子を見て明らかに驚いた表情。 特に、背中が前方と左側に著しく曲がってしまっていることに、「薬が悪さをしている。」 と、ミラペックスLAを止め、「ニュープロパッチ」 という貼り薬に変更してくれた。

 

「膝が前に出ない」、「回れ右ができない」、という父に、「それはすくみ足です。」 と、座布団の上で足踏みしてバランス感覚と筋力を鍛えるよう、アドバイス下さる (よろけたらすぐ支えられるよう、母をそばでスタンバイさせて、と)。

 

重症度分類のヤール度3にするかどうかは、薬の効き具合を見て2週間後に判断して下さるそう。  医師は、私が父の様子をかいていった紙を喜んで下さった。 「こういうのがあると、ファイルしておけるので助かります。」と。 やった~。

 

診察後、車椅子で病院内の食堂に行ってお昼を3人で食べると、父は手の動きも悪くドライカレーもサラダもボロボロこぼすので、私のタオルを父の膝の上に置く (よし、今度家にある要らない古いタオルを沢山持ってこよう!)。

 

とうとう食べるのを半分で諦めた父は、「お皿のへりが内側にカーブしていると、スプーンに乗せられるのに。 そういうお皿ないかなあ。」、と言う (よし、探してみよう!)。

 

ホットコーヒーのカップも持てず、熱いのにストローで飲んでいた (よし、ワッチが赤ちゃんの頃使っていたような、ストローつきマグを買ってこよう!)。

 

会計も院外処方も私が済ませ、両親はタクシーで帰宅 (いつも病院往復に、お金がすごくかかるなあ。)、私は区役所に介護申請か区分変更かをしに、電車を乗り継ぎ行く。

 

両親は、「介護認定は受けている」、と言うれど、持ってきてもらった介護保険者証には何も記載がない。 どういうことなのか窓口に相談すると、どうやら「要支援1」 と昨年10月に認定受けたらしいが、その保険者証が家のどこかにあるのだろうとのこと (夜「あった!」 と母から電話)。 もう、いちいちこういうことに時間がかかってしまうのだ。

 

窓口の男性は懇切丁寧に私の質問に答えてくれ、今後の流れが確認できた。

 

つまり、今日申請した介護区分変更に沿って再来週あたり実家に区役所から調査員が派遣される (勿論私も立ち会う)。 → 明日私が地域包括センターに電話して、機能訓練特化型のデイサービスを探してもらう (医師にせめて週1回は通うように、と言われた父は行く気になってくれた。 医師に感謝。 kurotyanさん、情報有り難う!) → 2週間後の診察時に、「主治医意見書」 を持参して書いてもらう。 要介護1とか2になるとしても40〜50日後だが、前倒しできるからもう訓練を受けて良い。

 

そのほ、「特定疾患医療受給者証の申請手続き」、「重症患者認定申請書用診断書」、「身体障害者手帳の交付申請について」、「身体障害者診断書・意見書」 (視覚障害と肢体不自由と2種) など書類をどっさりくれた。

コウジさんが高次脳機能障害になった時を彷彿させる、書類の山である。

 

これ、両親じゃ無理でしょう。 面倒くさいのと、体が不自由なのと。 連絡は全て私にしてもらうことにした。

 

たしかに皆が言うように、老いるとはどういうことか、今、親が教えてくれている気がします。 私が同じように年取った時、今の経験は大いに役立つこと間違いなし。

両親が、私が疲れてしまう、と心配してくれますが、全然大丈夫。 むしろ有り難く楽しく勉強しますよ!

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