日々コウジ中

日々コウジ中 - クモ膜下出血により、さまざまな脳の機能不全を抱える“高次脳機能障害”になったコウジさんを支える家族の泣き笑いの日々

2014年10月

やれやれ、父は2時間前に機能訓練型通所リハビリサービスのNさんが迎えに来て下さり、3時間のリハビリに出かけていきました。

 

朝からやはり父がお漏らししてしまったパジャマやシーツの洗濯をしましたが、今日は台風19号の影響で雨が降ってきたので、室内干しにしました。

 

朝食は昨夜のクリームシチューの残りに、ポテトサラダパン。

父の肺炎は、誤えん性だった疑いが濃く、パンは入院中はダメでした。

 

退院後も入院中に準じた食事、つまりドロドロの流動食みたいなものがいい、と医師に言われましたが、父は 「ある程度形がないと食べる気がしない。」 「入院中みたいな食事だったら死んだ方がいい。」 と言うので、なるべく父が喜ぶ食事にしています。

 

戦時中は食べるものがなく、「トンボを捕まえて茹でて食べたけどまずかった。」、と以前言っていた父。

「アンパンマン」 の作者やなせたかしさんも、「人間にとって最もつらいのは飢え。」 と言ってるように、食事は生きる最大の楽しみでもありますよね。

 

まだまだ頭のしっかりしている父には、なるべく好きなものを食べて、生きる喜びを失わないでほしい。

なので、私は父が食べたいものをスプーンやキッチンハサミで細かく細かく切って、とろみをつけて食べてもらっています。 見てかろじて、何を食べているのかがわかる程度までの細かさにして。

 

父も「うん、おいしい。 」と顔をほころばせています。

 

コウジさんも手伝ってくれますが、やっぱり面倒臭くなって、先日は餃子をたった3つに切ったまま、どんどん父の口に押し込んでいました。

 

その時私は、翌日のパーキンソン病の定期診察 (1か月半ぶり) に備え、「足が上がらず車に乗りづらい。」 という父のために、たまたまためてあった牛乳パック24本で踏み台を急遽作っていました。 (牛乳パックのリサイクル用にためていたのが、回収場所のスーパーに持って行く時間がなく。)

 

近所の工務店に踏み台がないか見に行ったり、制作をお願いしましたが、「今日1日で作るのは難しい(ほかの仕事もあるから)。」 と言われ弱って、はた、とひらめいたのが、先日行った帯広の高次脳機能障害者の作業所コロポックルさんで見かけた、牛乳パックの椅子でした。

 

あれならワッチが幼稚園児だった時作ったことあるし、意外と頑丈なので、ああいうのを作ろう、と。

 

そういうわけで急いで作っていたので、父の食事介助をコウジさんにお願いしていたのでした。

 

でも父がどんどん口に餃子を詰め込まれているのを発見、「ダメだよ! 父は細かくしたものを、ゆっくりゆっくり食べさせなきゃ。 また肺炎になっちゃうじゃない!」 と怒ると、疲れたコウジさんも切れてスプーンを放り出すと、「じゃ、お前やって!」 といなくなってしまいました。

 

私も、「もうあなたは食べさせなくていい! 私が食べさせるから!」 と怒鳴ってしまい、せっかく手伝ってくれていたコウジさんに悪かったな。

 

それに父の周りで家族がギャンギャン怒鳴りまくっているのも、父にはつらいだろうな。

わかってはいるのだけど、よく怒鳴っています。

いやはや、体の動かないパーキンソン病患者の介護は、やはりかなりきつい。

 

案の定というか、その晩ベッドに横になった父は、ほどなくむせ始めました。

 

心配で何度かベッドに行くと、「何かこのへん (喉) にあって、それが苦しい。 でも段々良くなっていくと思うよ。」 と微笑む父。

 

「餃子じゃないの?」 と飲み物を飲ませ、また寝かせました。

その後むせなくなったのでほっとしたものの、しばらくしてまた見に行くと、父は何かを吐いたまま寝ていました。

 

慌てて父を起こしますと、吐いたことは気づかなかったそうです。

うわあ、吐いたものを喉に詰まらせて窒息死、というニュースを聞きますが、父も危ない。

静かにしているからといって目を離しちゃダメだ、と青くなりました。

 

吐いたものの中には餃子はなく、赤い筋のような食べ物がいくつか。

ああ、コウジさんが餃子の前に、自分で父に買ってきてくれた中トロをおつまみに晩酌していたから、それかな。

それも、余り細かく切らなかったのかな。

トホホ、これからは本当に気をつけなくては。

 

父の顔を拭き、汚れた枕と服を替えると、父は 「吐いてからはスッキリした。」、とスヤスヤ寝ていました。

 

結局そんなリスクを冒して作った牛乳パックの踏み台は、高さが高すぎて使い物にならず、狭い部屋の中で邪魔になっています。

 

お風呂用ステップは高いし、やはりまた牛乳パックを集めて低いのを作ろう、とひそかに燃えているところです。

 

不屈の精神の私、エライのか、そんな時間ないのにまたしても自分で自分の首を締めている愚者なのか、何が大切で何が余分なのかわからなくなっているのかも。

 

さて、もうすぐ帰ってくる父の昼食用意しなくては。

 

ではまた書ける時まで。

 

コウジさんは寝ているし、ワッチは部屋にこもって勉強中。

台風も近づいていますが、明日の通勤通学の時間にはここ東京は通り過ぎているかもしれません。

 

皆様も、お気をつけて。

ホントにいまだかつてない忙しさで、このブログも、数行書いては時間切れで断念、の毎日です。

 

まあ、自分の親のことですから仕方ないのですが、とにかく現在の私の1日の大半の時間は、父に費やしています。

 

父に食事を食べさせているか、薬を飲ませているか、トイレ介助をしているか、オシッコで汚れた服や寝具の洗濯をしているか、体の移動をしているか、歯磨きの手伝いをしているか、洗顔しているか、お風呂に入れているか、父や母関係の用事 (病院や介護関係者と電話やら、実際会っての話やら、書類を揃えたり書いたりやら) をしているか、その他もろもろです。

 

そして家事と犬猫世話で、自分の用事はホントに何もできない。 メールも手紙も書けない今、このブログを最優先で書きました。 記録する必要もあり、皆さんにこちらの状況をお知らせしたくもあり。 メールや郵送は今日やっとできるかな、と思います。 父の退院後、やっと入院前の状態に戻れたかな、と。 まだ5キロ減った体重は1.5キロ戻ったところですが。

 

ワッチもコウジさんも、ほったらかしです。

 

コウジさんは頭や耳後ろの皮膚が荒れて、ここ数年皮膚科通いをしていますが、薬を塗るのは私の仕事でした。

(コウジさんはいい加減で面倒臭がりのため、自分では塗らない。 これも障害症状と捉えています。)

 

最近枕が血や膿に染まっていることがあり、今朝はそれがひどかったので、今メモを持たせて皮膚科に行かせました。

なかなか治らないので、皮膚科医師にも 「きちんと塗りなさい!」 と怒られているそうです。

 

私に余裕があれば毎日丁寧に塗布して、3日くらいで改善するのですが、もうここ数ヶ月ムリムリ!

今頃また、怒られていると思います。

悪いな、と思うけど、父が手間がかかりすぎるのでゴメン!です。

 

ワッチにもノータッチですが、推薦で進学先が決まった友達もポツポツ出てきていて、ワッチも不安気です。

 

ワッチは一般入試だけなので、2月にならないと受験もないし、合否も決まりません。

この4〜5ヶ月は精神的にきついと思うけど、頑張れ、ワッチ。

 

・・・ で、話を戻しますと (父は今、ソファーと机と椅子に囲まれた狭いスペースで、ソファーに座って虫眼鏡を手に書類を読んでるので、その間にブログを書いてる私)、父にかける時間で一番多いのが、移動の時間かな。

 

父を歩行器につかまらせて立ち上がらせ、私も歩行器をつかむと、前や後ろや横に、おいっちに、おいっちに、と号令かけて一緒に歩きます。

 

前は比較的進みますが、それでも 「すくみ足」 というのか、すぐ止まってしまいます。

後退はかなり難しく、左右移動はバランス崩してすぐ転倒しそうでヒヤヒヤ。

 

父が転倒して頭を打ったり、大腿骨を骨折したらもうおしまいだ、と緊張します。

 

トイレに行く、ダイニングテーブルで食べる、今度は籐の低いテーブルで食べる、歯を磨く、お尻が痛くなった、などの理由でひっきりなしに移動しているので、父娘ともにヒヤヒヤ、くたくたですが、これが父にとってはいいリハビリになっているのかもしれません。

 

ちなみに父は現在、「ヤール度5」、 「生活機能症度3」、という最重症のパーキンソン病患者です。

自分では立ち上がれず、ベッドに寝たままです。 歩行器に必死につかまって、やっとこさ移動できる状態です。 食事も、私が口に入れてあげるのを、口を開けて待っています。

 

入院でこの症状がさらに悪くなってしまったので、ここでまた挽回して、もう少し動けるようになってほしい・・・

 

続く (次に、いつ書けるかわかりませんが・・・)

帯広から帰ってきたのは、昨夜11時半ころでした。

 

寝ずに待っていてくれたコウジさんとワッチとお茶を飲みながら話し、案の定散らかっていた部屋を掃除して寝たのは、午前2時を回っていました。

 

ところで大型台風が明日関東を直撃し、帯広行きの飛行機も欠航になっています。

ギリギリセーフで行ってこられて良かった!

色々な方々との新しい出会いがあり、心温まり、心踊る帯広でした。

 

あいにく初日 (1泊2日で行きました) は雨で寒く、吐く息は白くて、作業所やホテルではストーブを入れたり暖房を入れたりしていましたが、朝は東京で暑くて汗だくだったんですよ。

 

帯広の話はまた明日以降に書きます (20日の鳥取の話もまだしてないのに) が、今日は江東区にある臨床福祉専門学校で講演会でした。

 

東西線へ続く大手町の地下道を歩きながら、昨日は帯広で話していたわけだし、よくもまあ、我ながらチョコチョコ動き回っているものだ、と内心呆れてました。

 

臨床福祉専門学校での話もまたにしますが、今日の東京は大雨です。

 

学校が明日休校になり、喜んでいるワッチを見て、コウジさんも明日会社を休みたい、と言ってます。

 

そして明日は母が退院する日なので、私は病院と実家に行かなくちゃ。

午前中は大雨だから午後行くことで、病院も了承してくれました。

 

実家に介護ベッドが入って、ヘルパーさんが初めて入ったところを見て、ウメの散歩があるから帰ります。

 

そしてあさっては、父の退院。

 

また私の家に連れてきますが、入院によって筋力があまり衰えてなければいいけど。

もう、この先いつ書けるかわからないので、今日父の病院へ行く前の今、急いで書いています。

 

それで結局、母の退院は6日午前にしました。

6日午後には介護ベッドが入り、ヘルパーさんが早速いらして下さることに。

 

ヘルパーさんには週3日、1時間ずつ、買い物や掃除、料理などをお願いしますが、母は入院前も料理はしなくなっていて、ワタミの宅食や、買ってきたお惣菜で食べていたので、とりあえずはその生活に戻れたらいいと思います。

 

私は3日〜4日は帯広にいて、5日は江東区にある臨床福祉専門学校での講演会があるため (講演会活動はそこで一旦休止。)、母の退院を6日にしたのです。

 

そして父ですが、残念ながら 「陽性」 という結果が出たため、7日まで引き続き入院することに。

 

電話で話す父もがっかりしていましたが、仕方ないし、母が退院できることを喜んでいました。

そして、私にも 「気をつけて北海道行っといで!」 と言うので、「まだ行かないよ。」 と笑いました。

 

父が行きたがっていたショートステイ先やケアマネさん、リハビリ先にも連絡。

あとほかに、やり残していることはないか、考えなくては。

 

あさってに迫った帯広は、もう寒いようなので、衣替えしないと?  そんな時間あるかな。

 

父の病院では、偽性腸炎の陽性結果を受け、看護師さんも医師もリハビリの先生も皆さんカッパみたいな防護服を着て、父の病室に入っているそうです。

 

そんなに感染力強いの?

医師も、私には 「病院に来ない方がいい」、とおっしゃるけど、着替えもなくなるので、色々必要なものを持って、とりあえず今日もこれから行ってきます。

 

うつらないよう、接触しないで父親の顔見たら帰ってきます。

 

考えてみると、父が病院にいればかえって安心して帯広へも学校へも講演に行けますし、あと1週間で、今度こそ父も良くなりますように。

 

父といえば、相変わらず 「せん妄」 というのか、おかしなことばかり言ってます。

 

亡くなった会社勤めの時の同僚が現れて、「ここ (病室の天井) から外へ出られるよ。」 と言うので、父は 「ほう、そうかい。」 と2人で立って出たそう (やんちゃな少年みたいだな)。

 

するとそこは、三軒茶屋の交差点だったと。 (なぜ三軒茶屋? ショートステイがあるところだから?)

 

でも、バスで家 (きっと私の家) に帰ろうとしてもなかなかバスが来ないうちに、迷ってしまったと。

 

そういうふうに、バスを待っている状態をよく経験するようです。

 

そういう場面では父は歩いているそうなので、「じゃ、それは夢だよ。 だって (父は) 歩けないんだから。 いつも歩行器でしょ。」 と理詰めで話すと、「そうかなあ。 夢ではなくて、本当にそういうことをした気がするんだけどね。」 首をかしげる父。

 

「せん妄」 だったら、退院すればまた元に戻ると聞きますが、そうでなくて認知症の始まりだったら、また色々考えないと。

 

 

・・・ ではまた書けたら書きますが、書けなかったら、帯広で皆さんとお会いできるのを楽しみにしています!

つづきです。

 

医師との約束は13時でしたが、待てども待てども医師は来ません。

 

看護師さんにも何度も尋ねましたが、「病棟回っているのかもしれませんね。」 とのこと。

看護師さんも、「ご家族がもう見えています。」 と医師に伝えて下さってましたが、この伝え方が悪かったなあ、と後でわかりました。

 

とにかく医師が慌てて病院に駆け込んで来たのが、午後3時前。

2時間も、父と私はじりじりしながら椅子に座って待っていたのです。

 

医師は13時と3時 (15時) を勘違いされたそうです。

すごく謝って下さいましたが、私は疲れたし、忙しくてもう帰らなくてはならないので、本当に困った、とやんわり文句を言いました。

 

一方、神経質に待ち続けていたはずの父は満面の笑顔で、「いえいえ!」 と言うので、(優しいのう。 偉いのう。) と感心すると同時に、無表情になりやすいパーキンソン病ですが、まだ父はこんなとびきりの笑顔ができるのだ、と嬉しくなりました。

 

医師は大変熱心で優しいですから、私は好きで信頼しています。 だから、「この2時間、父と色々話せてかえって良かった。」、と申しました。 実際そうですし。

 

でも、期待していた退院は、なんとまたしても見送りになりました。

 

医師が言うには、肺炎自体は良くなってきてもう大丈夫だが、昨夜から始まった下痢が気になる。  これはもしかしたら抗生剤を投与したことによって起きる、偽膜性腸炎かもしれない、と。

 

その日の朝検査したので、結果は翌日午後わかること。

陽性なら、引き続き入院 (私が帯広に行っている間、父はショートステイに行く事情も話してあり、感染するこの病気ではショートに行けないから、入院を伸ばしてくれるとのこと。)、陰性なら退院できる、ということでした。

 

父は元気そうなので、「多分その腸炎じゃないよね、そうじゃなければいいね。」、と、とりあえず翌日午後の医師からの連絡を携帯に入れてもらうことにして、昨日30日は、私は横浜の病院に入院中の母のもとへ行きました。

 

毎日父の病院へ行ってましたが、母の退院に向けての話し合いが、母のケアマネさん、病院の相談室の方、介護ヘルパーの事業所の方と午後2時からあったのです。

 

これも、「要介護1」 の認定が先週おりたのを受け、私が父が横浜にいた時お世話になったケアマネさんにすぐ連絡し、調整して頂いた集まりです。

(つくづく思うのは、こうして動き回る家族がいない人は、どうなっちゃうの? ということです。 どなたが、家族の代わりに、こうした作業をしてくれるのでしょうか。 知りたいので、おわかりになる方は、教えて下さいますか。)

 

なのに慌てていて携帯を忘れ、父の検査結果を聞けなくなるため、急遽母の携帯番号を父親の病院に知らせたり、もうあちこちで凡ミスが多発中。

 

つづく

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