日々コウジ中

日々コウジ中 - クモ膜下出血により、さまざまな脳の機能不全を抱える“高次脳機能障害”になったコウジさんを支える家族の泣き笑いの日々

2015年09月

なんと昨夜 (今朝) 午前3時にウメに起こされたので、仕方なく散歩をした。

 

おなかの調子が悪いらしいウメと真夜中に散歩していても、人っ子1人いない。

さすがに怖いので、寝ていたコウジさんも起こして、2人+1匹で歩き回った。

 

寝ていた途中で起こされたので多少腹も立つものの、前をトコトコ歩いては振り返るウメを見ていると、やっぱり可愛くてたまらず、穏やかな優しい気持ちになるし、笑ってしまう。

 

「早くおなかの調子が良くなればいいね。」 と後ろから話しかけながらも、ふと悪い病気ではないよね、と少し心配になる。

元気なので大丈夫とは思うが、生き物を飼っていると毎日気を遣う。

 

そのあと6時にもまた起こされ、睡眠不足だったが、父の様子を見に横浜の病院へ出かけた。

ウメが心配なのと、同じく睡眠不足のコウジさんには留守番してもらった。 コウジさんは、疲れやすいものね。

 

父は、酸素吸入の管を鼻につけていた。

濃いたんが出るのが苦しそうで、看護士さんが管でもなかなか取れず、たんを柔らかくする機械を10分つけた。

柔らかくなったところで、また管で吸い取るのだという。

 

父は手に、ミトンもしていた。 酸素の管を取ってしまうのだそう。

 

ほかにも点滴の管、尿管などもつけていて、1年前の入院の時より状態が悪いのは一目でわかった。

 

「身体抑制 (拘束) についての説明・同意書」 や 「入院診療計画書」 などの書類にサインをしたが、そこに書かれている 「推定される入院期間」 は 「9月22日〜10月5日」。

 

けれど看護士さんに確認すると、それはあくまでも予定であって、多分もっとかかるだろうとのこと。

つまり、まず酸素の管が抜けなければならないし、次に飲み込める練習をして食事ができるようにしなければならないし、退院はまだまだそのあとのようだ。

 

詳しい話は、30日に私は担当医師から伺うことになっている。  がっかりした。

1週間くらいで退院できれば良かったが、印象では肺の炎症が、去年の時より重いようだ。

 

父はぼんやりしながらも、絞り出すような声で、「身動きできないからつらい。」 「何もすることがない。」 「ミトンを外してほしい」 「あめが舐めたい」 と訴えた。

 

私は看護士さんから聞いた今の父の状況を説明し、もう少し我慢するよう言った。

父はちょっとおどけたようにがっくりした顔をし、すぐうつらうつらする。

 

明日は私は講演会なので病院へは母に行ってもらい、母がいる間だけでも父のミトンを外させてもらおう。

 

というわけで、去年同様、父の入院と講演会が重なることとなった。

講演のない時は、病院に通う。

 

入院中に、父の身体の機能が落ちすぎないことだけを祈っている。

 

少なくともこの1週間、父はベッド から離れられない。

 

可哀想でもっとそばにいてあげたかったが、コウジさんら家族が待つし、講演会もあるので、1時間そこそこで帰ってきた。

 

帰る時父は、たんを吸い取られるのが苦痛で大あばれしていたせいか、疲れて寝入っていた。

 

「また来るね。」 と耳元で言うと、薄く目を開けて頷いて、また寝てしまった。

 

さて、明日から始まる10回の講演会 (来年1月末の大阪講演も入りそうですが、一応講演依頼をお受けするのは、そこまでにするかもしれません。 父と母の病気進行次第ですが・・・)。

 

父には、 「9月下旬から3ヶ月くらいは講演会を入れたから、その間は倒れないでね!」 と何度も言っていたのに。

父も、「うん。」 と答えていたのに。

 

あ〜あ。  でも仕方ない。

 

父は病院にいるので一応安心して、明日から頑張りま〜す!

皆様、宜しくお願いします。

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こんばんは。 あらかじめ申し上げますと、今夜の話はあちこちに飛びます。

 

今日の夕方、ブログのコメント欄を読んでいてびっくりしました。

さいたま小町さんが、ご主人を連れて 「明日行きますよ!」、と書いておられたからです。

 

私は、(え? 講演会って明日? 日曜日かと思ってた! まずいまずい!) と慌てて確認したところ、やっぱりあさっての日曜日でした。 ほっ。

 

もう、本当にびっくりしました。 うっかり者の私なら、やりかねませんからね。

あさってだと思っていて、明日の講演会は父の見舞いをしていた、なんて。

それくらい今の私の頭の中は、10個の講演会が混乱気味に入っています。

 

繰り返しますが、あさって27日の日曜日午後1時半からが、港区主催講演会。

しあさって28日の月曜日夜7時からが、千葉リハさん主催の講演会。 こちらは就労がテーマです。

 

あさって港区主催講演会には、コウジ村からさいたま小町さん (とご主人)、くーさん、スマイルさん、のぶママさん (とお子さん3人)、くりのあさん、かずみさん (とご主人) がいらっしゃいますよね。 ほかにもご連絡くださった方がいらしたかな? (まだお返事してない方、すみません。) コウジ村外からは、シゲモリさんがいらっしゃいますね。  お会いできるのを楽しみにしています。

 

明日は、1時間内に話す練習をしなくちゃ。

父の介護のため、去年最後の講演会から約1年お休みしているので、ちょっと緊張します。

 

その父は、入院して4日たちました。

昨日今日と母が病院へ行きましたが、明日は私が行く予定。

 

担当医師と家族 (私) の話は、30日午前になりました。 ということは、30日まではあまり状況が変わらないこと、退院もまだ先だということです。

幸い、危険極まりない状況ではなさそうです。 勿論油断禁物ですが。

また入院前みたいにご飯を食べられる状態にして、退院となるようです。

 

母は、昨日は看護士さんに父にサイダーを飲ませないように、と怒られ、今日は父に 「同じ話ばかりするな、3回目だ。」 と怒られたそうです。

 

私は、昨日は下痢ばかりするウメの散歩 (朝6時半から夕方5時まで散歩ばかり) でフラフラになって、早く寝ました。

前の日、可愛さあまって、つい食べさせ過ぎたのを反省。

 

そのほか、ウメの散歩中、ツマグロヒョウモンの幼虫9匹が歩道を歩いているのを見つけてしまったせいで、餌となるパンジーを、花屋や友達に聞いて探すはめになりました。

 

結局見つからず (パンジーが入荷するのは10月下旬だそう。でも今年は涼しくなるのが早かったので、パンジー入荷も例年より早くなる見込みとのこと。)、仕方なく、野生のスミレが生えていそうな、鬱蒼と雑草が生い茂るお宅の庭にリリースしました。

 

このツマグロヒョウモンは、元々南方に生息する蝶ですが、温暖化により東京にも来るようになったと言われています。

でも餌がスミレ科の葉っぱだけなので、パンジーやビオラが切れるこの時期は、生き残るのに厳しい。 冬場は、幼虫のまま冬越しするようです。

 

ツマグロヒョウモンは、チョウ(特にオス)もきれいですが、さなぎも美しいのです。

金色のボタンがついたような、きれいなさなぎです。

 

ワッチが小学生の頃、よくアゲハやツマグロヒョウモン、鈴虫やカブトムシを育てていました。

ワッチより私の方が夢中だったかも。

ハムスターも可愛がり、計7匹飼いました。 今も飼いたいけれど、ウメとハルがいるから飼えません。 すぐ餌食になってしまうでしょうから。

 

子カメも2匹飼いましたが、まだ若かったウメに噛まれて天国へ行ってしまいました。 今も申し訳なくて悲しくて。

 

我が家にはあと、熱帯魚がいます。 これもワッチが飼い始めたもので、今は私が世話しています。

いっぱいいたカージナルテトラも、 あと3匹になりました。 コリドラスも、ハニーグラミイも、オトシンクルスも、ヤマトヌマグエビも、みんな死んでしまいました。

熱帯魚が皆死んでしまったら、水槽も片付けようと思いながら、毎朝毎夕餌やりをしています。

 

・・・が、水槽の中には実はあと1匹、大きな熱帯魚がいるのです。

それはセルフィンプレコ。

 

何年か前に近所の熱帯魚屋が、元アルバイト店員に恨みから? 襲撃された事件がありました。

 

その時6千匹の熱帯魚が、割られた水槽から流れ出て犠牲になりました。

ちょうどその片付け中に店前を通りかかった私が、バケツで生き残った魚をレスキューした、その中にまだ赤ちゃんだったプレコが1匹いたのです。

熱帯魚屋さんが、「もう売り物にならないからいらない。」、と くれたプレコ。

 

最初はオトシンクルスみたいな小ささだったのに、どんどん立派なナマズみたいになってきました。

大きくなると、30センチとか50センチになると聞きました。  どうしよう。

 

いつも餌を買っているお店の人が、引き取ってくれると言ってくれますが、愛着が湧いていて手放せません。

 

そのプレコを、ハルがいつもいじめています。

水槽の外から、バンバン猫パンチ。 最近は、プレコも慣れて逃げなくなりましたが。

 

写真は水槽前の、ハル。 プレコが出てくるのを待っています。

(大きなライトが壊れたので、小さなライトを使っています。)

水槽は、ADA社のもの。

 

ハサミやピンセットなど、手入れ用具もADAで揃えたワッチ。

水槽レイアウトに関心があるようで、いつかADAの新潟にあるショールームにも行きたいようです。

 

最近ADAの天野尚社長が亡くなられ、ショックを受けていました。 まだお若いのに。

 

川島なお美さんも、私たち夫婦と同じような年代でしたが、亡くなられるなんて。

 

でも、最後までこんなに一所懸命になれる仕事に出会えて、優しいご主人に出会えて、早過ぎますが幸せだったと思います。 ご本人の並々ならぬ、努力あっての濃密な人生だったと思います。  立派な女性だったのだな、としんみりしています。

 

わかりきったことですが、いつ死ぬかわからない人生、毎日を大切に過ごさなくては。

 

50を越えた今、よく考えることです。

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ウメと散歩していると、ここかしこからキンモクセイの香が漂ってくるし、イチョウの葉が黄緑色になってきたのに気づくし、ぎんなんやくぬぎも落ちている。

まだまだ暑いけれど、秋は着実に近づいてきています。

 

写真はウメとイチョウ。

イチョウの木の上の方がオレンジ色になっているのは、ぎんなんです。

のこさんの、「ワンちゃん、ねこちゃん画像癒やされます。」 という言葉に気を良くして、また画像投稿しました〜。

 

今日父の病室には、頼りないけれど母に行ってもらいました。

父は、私より母が行った方がやっぱり喜ぶし、母はタクシーで10分で行けますが、私は電車乗り換え乗換で、1時間半かかるので。

 

明日もあさっても母に行ってもらい、土曜日は私とコウジさんで行こう。  父は病院にいるので、やはり安心です。 うまくいけば、1週間くらいで退院できるかな、と思っています。

 

去年の父の入院先は、私の家から車で10分でした。

2週間の入院中は私が毎日行きましたが、その時は母自身も入院中でした。

 

この1年、父と母合わせて3回も入院した、というわけです。

それまではなんとか2人元気に暮らしていたのに、突然変わってしまいました。

高齢になると、そういうものなのかもしれない。

勿論、百歳越えても元気な日野原重明さんのような方もいらっしゃるけれど。

 

ところで、今日父の病院から帰ってきた母が、電話で開口一番、「サイダー飲みたい、って言うから買って飲ませたわ。 残りは置いてきた。」

 

私はびっくりして、「ダメだよ、飲ませちゃ! 誤嚥性肺炎だから禁止されてるんだよ。 看護士さんいなかったの?」 と言うと、「え、そうなの? そんなこと知らないもの。 看護士さんはいなかった。」 という返事。

 

すぐ病院に電話して、母が父にサイダーを飲ませたこと、残りを病室に置いてきたことを伝えました (看護士さんは処置中でつかまらなかったので、受付に伝言を頼みました)。 母が言うには、「飲ませてないわよ、飲めっこないから、舌にサイダーをつけてきただけ。」 ですが、それでもダメなんじゃないのかな。

 

母はまた、「同じ部屋の人が刺青していた。 その人が私を睨んでいた。」 と言う。

 

父は本来なら内科の階なのですが、そこは満室で、整形外科の階の重症患者の4人部屋にいます。

そこならモニターもマイクもついているし、看護士の出入りも頻繁なので、異変にすぐ気づいてもらえて、私も安心。

きっと刺青の人はどこか外科的な怪我をしていてしんどいのに、母が大声で父にワアワア話していたので、うるさかったのだと思います。

 

母に、明日は病室では静かにしていて、父にサイダーを飲ませないよう注意しました。 ふう、大丈夫かな。

 

母からは今日、なんと16回も電話がありました。

なんだか色々なことが心配のようで、そのうち半分は同じ話でした。

うるさくてしまいには不機嫌になる私に、母も最後は慌てて短く切りました (その間15秒くらい)。

 

話は変わりますが、昨夜は夜中ちょっと寒さを感じたので、寝具を夏用から秋用に変えることにしました。

そのため今日は洗濯機も3回回したり、布団を干したりで、あっという間の1日。

 

世の中はシルバーウィーク最終日でUターンラッシュだったそうですが、我が家には無関係な話です (でも、行楽ばかりではなく、大雨被災地にボランテイアに行ってきた人たちもいると思い、頭が下がります。 連休が終わると、ボランテイアが大幅に減ってしまうと予想されることから、汚泥除去や家屋の掃除などのボランテイアが欲しい、と常総市社会福祉協議会はお願いしています。 → 同市災害ボランテイアセンター 電話 090-6568-6333 ~東京新聞より)。

 

コウジさんは連休中よく寝ていたので、日頃の疲れがとれたかな。

 

ウメの足の腫瘍の大きさも、いつも気になって見ていますが、手にも腫瘍のようなこぶがあるのに気づきました。

探せば、もっとあちこちにあるような気がします。

 

今のところこぶは皆大きくないけれど、監視を続けて、この先大きくなって歩行に差し障りが出そうになる前に、病院へ連れて行かなくちゃ。

いや、このまま大きくならなくても、時期をみて病院に相談してみよう。

 

その病院からは、ハルのワクチン接種予定日のお知らせが来ている。

亡き猫おはぎは、家に来てから1度もワクチンを打たなかったけれど、20歳まで元気だった。 でも、打たないとダメなのかな・・・。

 

ワッチが5月初めに大学の階段から落ちて、顎に怪我をしてからもうそろそろ5ヶ月。

6針縫った傷も薄くなったので、もう通院も必要なくなりました。

 

そこで、保険に2つ入っているので、保険金申請書を送ってもらいました。

縫合には保険金は出ないそうですが、通院に対しては1日2千円出るので、たった3日の通院だけど申請しよう。 そのための保険だものね。

 

ワッチといえば、先々週、大学のクラブの合宿で4泊の予定で喜んで出かけて行きました。

が、1泊したところで熱を出して、現地で部員の人たちに病院へ連れて行ってもらったあと、1人で帰ってきました。

帰ってきた時には平熱になっていたので、なんのために帰ってきたのかわからない。

 

家族のことだけで、ホント気が休まる間がない・・・

 

また、何日か前にこのブログで触れた、女性当事者について、数々のアドバイスを有り難うございました。

どうも彼女に電話する時間がないので (電話となると長時間になると思うので)、皆さんからのアドバイスや私からの再度のアドバイスを手紙にしたため、近日中に郵送しようと思います。

ご協力ありがとうございました  (彼女へは、そのうち電話できる時にしようと思いますが)。

 

それから最後に、11月20日、21日の脳外傷友の会全国大会参加には、申込みが必要とのことでした。  それも今月30日までだそうです!

 

かじきちさんからのコメント (19日) や、日本脳外傷友の会からの今週の 「JTBIAめーるつうしん」 に、その注意喚起が書いてありました。

申し訳ありませんでした。

 

参加される方は、急いで日本脳外傷友の会ホームページから申込み書を印刷され、東武トップツアーズにFAXして下さい。

 

私も遅ればせながら明日FAXします。

私は20日夜交流会、私とコウジさんは21日の大会に参加します (コウジさんは別に希望していませんが、引っ張って行きます。笑)。

 

待望の秋は来たけれど、まだこの先ひと波乱もふた波乱もありそうです・・・。

昨夜はホームから電話がなかったので、(ただの風邪だったかな。) (治ったかな。) とちょっと安心しながら、一応今朝9時になったらホームに電話しよう、と時計を見ていた。

 

ところが8時50分にホームから先に電話があり、父の熱が解熱剤飲ませても8度を下らないので、これから病院にお連れします、とのこと。

 

ああ、これは恐れていた 「誤嚥性肺炎」 に違いない。 またなってしまったのだ、と色々やりかけのものを放り出して慌てて病院へ向かった。

 

コウジさんに洗濯物を干しておいてくれるよう頼み、「時々連絡入れるから」、と言い残し。

 

コウジさんが 「日傘持って行きなよ。」 と言ってくれたので、暑くまぶしい日差しを遮りながら歩けて良かった。

まだまだ暑くて、袖なしの服を着ている人もちらほら。

 

1時間半かけて病院に着くと、ロビー (兼待合室) で順番を待つ人々の中に、やせた小さなおじいさんが車椅子に乗っているのが目に入った。

 

先週見た父より小さく見えたので、(別の人かな?) と思いながらもソロソロ近づき、その人の目の前で失礼ながら顔を覗き込んだ。

 

(父かな、なんか違うけど・・・)、と尚も首をかしげて覗く私に、気づいて顔をあげたその人は、大きな目 (緑内障でガラスのような目) を見開いて、(ああ・・・) という表情をした。 ちなみに父の左目は、もう見えない。 真っ暗だそうだ。

 

この反応は、父に見えないけど父に違いない。

体調が悪い時の父は、なぜこうすぐ別人のようになるのだろう。 今にも死んでしまいそうに、衰弱した顔をしている。

 

何か用をしていたらしいホームの職員がすぐ寄ってきて、父の様子を教えてくれた。

 

9時半に病院に来てから問診、レントゲン撮ったけれど、レントゲンではわからなかったのか、CTも撮って今診察を待っているところだそう。

 

お礼を言いながらも、今11時過ぎているのにまだ診てもらえないことに焦って (それほど父は、咳をしたり喉がゴロゴロして息苦しそうだったし、私と一言も会話できないほどつらそうだった)、受付に行った。

 

「救急車で来なかったからかも知れないのですが、父がとても苦しそうです。 早く診てもらいたいんですけど、あとどのくらい待ちますか?」 と言った。

 

受付の女性が慌ててどこかへ連絡しに行った時、私の背中で父の名前が呼ばれた。 父の番になったのだ。

私はすぐ女性を追いかけ、「呼ばれました。有り難うございます。」 と言って、ホームの職員と父の車椅子を押して診察室に入った。

 

それにしても、休日診療はこんなに混んでいるのか、とびっくり。

ひどい咳をしている人が私の真後ろに座っていて、(うつったらやだなあ。) と思った。

休日診療に来るくらいだから、よほど体調悪い人ばかりに違いない?  マスクしてくれば良かったなあ。

 

ともかく、去年も父は秋分の日に肺炎を起こした。

息ができないくらいもっと苦しんでいた父は救急車で病院へ運ばれ、酸素マスクをつけられ処置室ですぐ診てもらえた。

今回はこんな悠長で大丈夫なのだろうか? と気ばかり急いた。

 

診察室で見せられた父の肺は、両方とも白かった。

「誤嚥性肺炎でしょうね。」、と医師が話している最中でも、父がひどく咳込み、タンを出した。

でも吐き出す力がなく、なかなか出せなくてつらそうだった。

 

入院となり、父はストレッチャーで病棟へ運ばれる。

私はホーム職員と色々な書類に記入したり、病院職員の質問に答えたり、説明を聞いたり。

 

ホーム職員も、父の部屋から入院道具一式 (ひげ剃りや歯磨き用具、入れ歯、タオル、下着など一袋) を持参した別の職員とバトンタッチした。

 

ああ、ホーム職員は、家族のように動いてくれて有り難い! 人手のない我が家が、どんなに助かることか。

(ちなみに母は今日、1月に1度の囲碁の集まりに出かけているので、外出先でパニックになると面倒だから、知らせていなかった。)

 

来週のパーキンソン病診察も、私が忙しいから、ホーム職員に父のクリニックへの送迎と付き添いを頼んであった。

この3年間、毎月私が父に付き添っていたけど、来週は体力的時間的に厳しく (講演連続2日の翌日なので 。しかも2日目は夜の講演会だから、帰宅は深夜になる)、今回初めて他人にお願いしたのだった。

 

だが入院となり、その診察も行けなさそうである。

パーキンソン病の薬と、アリセプトの増量 (3ミリグラム→5ミリグラム) をどうするか。

今父が入院した病院でも出せるという話なので、クリニックに連休明けに相談してなくては。

 

入院した病院でも、連休明けに父の担当医が決まり、そのあと家族 (=私) との話が持たれる。

 

私が27、28日が仕事 (講演会) で出て来られない旨を伝えると、看護士さんは 「27日は何時から何時までダメですか?」 「28日は?」 と聞く。

 

「27日は午前10時くらいから夜までダメで、28日は夕方4時くらいから深夜までダメです。」 と答える。

(でも、それ以外の時間でも、その日に横浜の病院で医師と話し合いなんて、できないよ。 疲れて講演で話せないよ、無理だよ。)、と思う。

 

我が家はつくづく人手が足りない。

母のような (アルツハイマーの) 家族には説明できない、と言われるが、当然だ。 私しかいない。

私がいなかったらどうなるのかな。 その場合はホーム職員になるかもしれない。

 

ほとんど話せない父が力を振り絞って発する言葉は、「サイダーが飲みたい。」 「あめだまでもいい。」 「そこにある浄水器の水がおいしいよ。 それでもいいい。 (ホームにいる、と混乱している?)」

 

でも、今は何も飲ませられない。

「肺炎なんだから命に関わるよ、少しの辛抱でまた食べられるようになるからね、口の中はきっと湿らせてもらえるよ。」 となだめると、がっかりしている。

 

可哀想だなあ、と親なのに、子どものように思う。

 

今日の用事が全て済み、「また来るね。」 と肩を叩く私に、目を閉じたまま 「はい。」 と答える父。

入院手続きをロビーでしていた頃から、私は頭がズキズキし出した。

(ああ、さっきの風邪の人の風邪が、うつったかもしれない。) そう思ったが、そう思うと本当に風邪ひきそうなので、考えないようにする。

 

連休中で、電車も駅も通りも人だらけ。

留守番しているコウジさんとワッチに、おいしいお弁当を高島屋地下に寄って買うと、疲労困憊して帰宅。

 

私だけお弁当を半分食べ (今日は昼食抜きだったが、あまり食欲なし。)、バファリンを飲んで少し寝る。

また起きて、冷えピタをおでこに貼る。

義母と母に事の次第を報告し、もう今日はダメです。 余力がありません。

これを書いたらお風呂に入って、すぐ寝ます。

 

皆さんおやすみなさい。

今日午後3時少し前、父がいるホームから電話があった。

部屋で車椅子に乗ったまま、机の上のものを取ろうとした父が、前のめりに転倒したとのこと。

でも膝を少し痛めただけで、大丈夫そうだった。

 

父はナースコールを使わないでちょっと動いては、転倒することが多い。

 

15日に父の部屋に一緒にいた時、私の目の前で父はいきなり車椅子から立ち上がって、リモコンを取ろうとした。

 

私は慌てて、「立ったらダメだって言ってるでしょう。 危ないよ。 そういう時はナースコール押さなくちゃ。 これこれ。」 と注意して、リモコンを取ってあげたあと、すぐそばのナースコールを指差した。

 

きっと父は、いつもこうして自分で動いてしまっているに違いない。

転倒した時だけ見つかって、職員から私に連絡が来るのだろう。

そんなことがもう3、4回あった。

転んで頭を打ったり、大腿骨骨折なんかしたら、即入院で体が弱ってしまうから心配だ。

 

また夜にでも父に電話して注意しよう、と思っていた7時に、またホームから電話があった。

 

今度は、「夕食で飲み込むのが遅いので、変に思って熱を計ったら、7度7分あります。」 とのこと。

 

食べさせるのをやめて看護士さんが胸の音を聞いたけど、誤嚥性肺炎ではなさそうだと。

でもこのまま8度を超えたら、カロナール (解熱剤) を処方したり、さらに様子がおかしかったら、救急で休日診療に連れて行こうと思います、とのこと。

 

電話を切って母にも一応連絡 (パニックにならないよう、大したことないように装い。)、その時たまたまメールしていた医療職の知人に相談した。

 

すると、「やはり誤嚥性肺炎の可能性もあるから、聴診器ではなくレントゲンを撮った方が良い。」 とのアドバイスをもらった。 有り難い。

 

父は昨年9月23日の秋分の日に、私の家で誤嚥性肺炎になり、救急車で運ばれたことがある。

あの時は 「もうダメだ・・・」 、と覚悟したくらい、父は震え、胸を痛がった。

 

誤嚥性肺炎は繰り返すというし、高齢者の命取りになる怖い病気だ。

しかも去年と同じ時期。

 

11日には、私が父に御座候 (大判焼きみたいなもの) を3つ、15日にはまたもや私が父に、あんぱんとあんドーナツを3つ持って行って食べさせている (父の好物なのだ)。

私の家で介護していた頃のように。

 

まさか、また私が原因で父を誤嚥性肺炎にしてしまったのではないか?

 

どんどん心配になってきてホームにまた電話して、父が1年前に誤嚥性肺炎で入院したことを伝え (夜間担当の職員になっていた。 多分申し送りはされていると思うが)、命に関わることなので、今晩はよく父を見ていてほしいこと、レントゲンがないなら、様子がおかしかったらすぐ救急病院へ連れて行ってほしいことを頼み込んだ。

 

昨夜9時からNHKで放送されていた 「老衰死」 という番組を見ていた私は、(父が亡くなる時もこんな風に食べなくなるのだろうか、でも今はまだモリモリ食べているから大丈夫だな。)、なんて考えていた。

 

だが、誤嚥性肺炎になったら、元気だった父も、老衰になる前にすぐ死んでしまうではないか。

ということで、明日は急遽ホームに父の様子を見に行くことにした (今晩ホームから、「今からお父様を病院へ連れて行きます。」 という電話がなければ。 電話があったら行き先は病院だ)。

 

今月は1日に母を病院に連れて行ったあと母の携帯を買い、11日に父のホームへ行き父の携帯を買い、15日に父を病院へ連れて行き、慌ただしかった半面、父と母の様子はよく見ている。

 

2人とも変ながら安定していたから、安心してこれから10回の講演会へ行けると考えた。

でも、来年はまたちょっと考えものだ。

 

ちなみに15日の診察では、やはり父に出ている妄想は、ニュープロパッチを増やしたせいだとのことだった。

 

けれど体に柔らかさが出ていてニュープロパッチが効いているので、ニュープロパッチはこのままにして、アリセプトを処方してくれることになった。

 

ニュープロパッチを元の量に戻しただけなら、前と変わらないので父は不満だけど、新しい薬が増えたので、それに期待する嬉しそうな父を見て、私も嬉しくなった。

 

「体が固いうちは、まだ薬が効くということですよ。 まだまだ良くなりますよ。」 と励ましてくれる医師に、父も顔を上げて笑っていた。

 

診察室を出てから、「いい先生だね。」 と言うと、父も 「うん。」 と言っていた。  なのに・・・

御座候とあんぱんが、いけなかったのだろうか?

 

それはそうと、今日は朝から夕方までずっと、12月の京都と沖縄講演会の新幹線や宿を予約するのにおおわらわだった。

 

(12月4日なんてまだ先だから)、と思っていたが、なんと京都はその頃紅葉シーズンらしい。

 

駅近ホテルはどこもいっぱいで、仕方ないので日帰りにしようと何度も諦めかけた。

だがやっと、評判はイマイチながら1つ駅近のホテルが取れたので、本当にほっとした。 残り2部屋だったので、あと少し電話するのが遅かったら日帰りになるところだった。

 

別に日帰りでいけないわけではないのだが、自分で勝手に泊まってくるのです。

 

その方が、講演会あとに参加者の方々とゆっくり話せますし、体も楽です。

しかも夜遅くに帰宅すると、コウジさんとワッチが寝ずに待ってしまうから、疲れさせてしまうし。 翌日昼間にゆっくり帰ります。

 

京都が苦労したので、13日の沖縄も急に心配になってきて (日程が13日午後に決まったのも、ごく最近のことなんですが)、早い方がいいかしら、と旅行会社にまた電話した。

 

するとやはり飛行機と宿とも、かなりもう埋まっていた!

下手したら飛行機がとれなくて、沖縄講演に行けないところだった。

京都も沖縄も、中国からの観光客の増加が関係あるのかしら。

 

とにかく希望のホテル3つのうち2つはもういっぱいで、最後の1つに空きがあったのですぐ予約。

飛行機も、希望の便はいっぱいで、遅い便しか取れなかった。

 

ああ疲れた。

朝から夕方5時までこんなことをやっていました。

 

お願いすれば勿論、講演主催者にそれらを手配して頂けますが (そうお申し出して下さっていましたが)、自宅から新幹線品川駅までの電車乗り継ぎや、羽田空港までの電車やリムジンバス乗り継ぎのスケジュールは私の方が詳しいし、自分の都合に合わせて決めたいため、いつも私が予約しています。 その方が、メールやり取りなど不要で楽なため。

 

それより目前に迫った港区と千葉市の講演会の練習を、そろそろしないと。

 

今日の最後に・・・

昨日ウメの散歩中、ツクツクボウシが鳴いていました。

あの大雨のあとなのに、まだ頑張って鳴いていてエライぞ!と嬉しかったです。

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