日々コウジ中

日々コウジ中 - クモ膜下出血により、さまざまな脳の機能不全を抱える“高次脳機能障害”になったコウジさんを支える家族の泣き笑いの日々

2015年12月

ご無沙汰しました。
一昨日、無事父の葬儀を済ませました。

父が亡くなってからというもの、葬儀の準備を進めながら、父が安置されているお寺へも毎日のように通い、眠っている父と会ってきました。

私も父も、父がまさか年内に亡くなることになろうとは思っていませんでしたので、色々な思いが交錯し、私はまだ水の中を歩いているような気持ちです。

亡くなる2週間前には胃瘻の手術を受け、体力回復を目指していた父。
病室の壁には、明日から始まる新年1月の大きなカレンダーを私に貼らせた父。

常に前を向き、生きることを決して諦めなかった父を誇りに思っています。

焼き場の関係で、父が亡くなってから葬儀まで時間があいたので、当初は5人くらいの家族葬で送る予定が、親戚や親しかった友人も都合をつけて参列下さり、思っていたより賑やかな葬儀となりました。 沢山の花に囲まれた父も、きっと喜んでいただろうと思います。

父がパーキンソン病を発症してから3年余り、結婚して家を離れていた娘の私にとって、思いもかけず父と一緒にいる時間が増えました。

特に自宅に父を連れてきて、夫コウジさんと娘ワッチ、愛犬ウメと愛猫ハルと共に過ごした2か月ちょっとの時間は、今思うと、大切な宝物の時間でした。

パーキンソン患者、しかもヤール度5(最重度)である父の世話は、思っていた以上に大変で、私が悲鳴をあげることもしばしばでしたが、優しい夫コウジさんが父との毎日の晩酌相手となってくれたり、父の私への愚痴の聞き役になってくれたりしました (私は決していつも父に優しい言葉をかけてばかりいたわけではなく、注意したり怒ったり、説得したり、口うるさかったと思います)。

一方、父に私の手料理を食べてもらったり、色々話ができたり、良かったなあ、とつくづく思います。
(その後誤嚥性肺炎で入院、老健でのリハビリ、と父の生活の場は移っていきましたが、あくまでも 「良くなるための」 場所を選んでいった結果です。)

葬儀では、この3年間の闘病(リハビリ)の様子だけでなく、父が81年前に生まれてから今までの軌跡を、手元にある写真を入れながら綴ったものをA4用紙18枚にまとめ、集まってくれた方がたに配りました。

その作業のために、父の写真がもっと欲しいからアルバムがないか、母に何度聞きましても、「あらあ・・・ どこにあるかわからない。」という頼りない返事ばかりだったので、もう時間もないことなので諦めて、あるだけの写真を整理し、パソコンでスキャンして、娘のワッチに教わりながら貼りつけて、紙も写真の発色がいい紙をアマゾンで取り寄せて、18枚を閉じるファイルを葬儀前夜の7時半にお店に駆け込んで用意し、葬儀当日の深夜1時に完成した時は、嬉しかったです。

また、喪主は母にしたものの、母はアルツハイマーで勘違いばかりでまともに話せませんし、仕事で忙しい兄より自由な時間がとれる私がこの3年間の父のことをよく知っていますから、葬儀での挨拶は、私が述べることにしました。 講演では原稿を読まない私ですが、大事な葬儀で言い忘れがあると一生後悔しますから、原稿を用意しました。

思いのままに書き上げた原稿は、A4で8枚でしたが、葬儀担当者の方から、「8枚はちょっと多いです。」と言われ、深夜1時から急遽3枚に書きなおし始めました。それができたのが午前2時。 葬儀当日まで、本当にバタバタと過ごしました。

けれど葬儀でその父の生涯をまとめたファイルを配りますと、皆さんとても喜んでくれました。 大げさなことを嫌がる父も、きっと困惑しながらも、喜んでくれていると思います。

なにより、昨日も実家に母の様子を見に、食べ物を抱えて行きますと、母はずっとそのファイルを読んでは喜んでいるようでしたから、良かったと思いました。

まだまだ書きたいこともありますが、今日は大晦日で、やることがいっぱいあるので、このへんでやめておきます。

本年は最後に最愛の父の死、という悲しいできごとで終わった1年でしたが、常に強い意志とともに前進あるのみだった優しかった父の気配を背後に感じつつ、新しい年も邁進していこうと思っておりますので、宜しくお願い致します。

皆様にとっても、来年が良い年になりますように!

昨夜(といいますか、約4時間前)、最愛の父が亡くなりました。
急変でした。

家に帰ってきた今、まだ信じられません。 

一昨日、「年末年始を病室で賑やかに過ごそうね。」、と父に話したばかりなのに。

沖縄でもらってきた障害者向けの旅行パンフレットを見せ、「車椅子でも海に入れるんだよ。入ろうね。」 と言うと、感心したように眼を開いて写真を見、嬉しそうに頷いていたのに。

勿論今まで何度か肺炎を起こし、危機もあり、少しは覚悟していた部分もありますが、期待の方が大きかったです。

信じたくない気持ちの方が、強かったです。
父の気力を、とにかく信じてきました。

ちょうど2週間前の胃瘻手術後の経過も、とても良かったのに。
これから体力つけて、自宅への外出を楽しみにしていたのに。
つい3日前の主治医との面談では、順調な回復だと言われたばかりだったのに。

「でも高齢ですから、何が起きるかわかりません」 という主治医の言葉は、余り考えないようにしていました。



・・・ まだ混乱していますし、明日からすることが色々ありますので、、少し落ち着いたらまたここへ来ます。

昨日のコウジ村の話も書きたいのですが、色々続いた毎日が、ようやく今日で一段落しましたので、年末に向けて、記憶に新しい今日の出来事から遡って記していきたい、と思います。

今日は父の主治医との面談が午前にあったため、朝ウメの散歩を済ませると、洗濯する時間はないので諦め、駅までせかせか歩き、電車に飛び乗りました(その間お財布を忘れ、一度家に戻る)。 
最近電車も何かと遅れることが多くて、乗り換えた電車もまた遅れ、イライラしながら約束の面談の時間10分前にぎりぎりセーフ、病院に着きました。

まずいつものように病室の父のところへまっすぐ行きますと、目を閉じている父の鼻には酸素チューブが入り、口元へ加湿の蒸気が当てられ、痰を入れる容器にも痰が沢山入っているので、(ああ、まだ痰が結構出ているのだな。) (私が病室に入った時、ベッドに身を起こしてテレビを見ていて、私を見て (ああ。) とほほ笑む父がいる、という日は来るのだろうか。) など考えました。

それでも手を触ると冷たいので、(熱はなくて良かった。) と安堵。 目を覚ました父に、「今から院長先生 (主治医) と話してくるからね。」 と言いますと、父は (そうか) という表情をして、またうつらうつらとしていました。

医師との話では、胃瘻手術後の経過は順調だけれど、まずはベッドアップ (ベッド上で体を起こす) から始め、車椅子にも乗れるようになるよう、ゆっくりゆっくりやりましょう、とのこと。
勿論年末年始に自宅へ外出、というのは許されませんでした。 車椅子にも座れないから移動は難しいし、病院が休みの時に何かあったら困るし、寒い時期に表に出て風邪ひくより、暖かくなってから外出できたらいいな、と私も思います。

病室に戻り、父に今の医師との話を伝えていると母もやってきました。
実家からすぐそばのこの病院にして、良かったです。 母も来やすく、将来実家への外出も気軽にできそう。

母とお昼ご飯を食べよう、と病院の1階にある食堂で、もう顔なじみになった店員さんに挨拶し、席に座りました。
大体いつも私はナポリタンセット、母はビーフカレーセットを頼みますが (各620円でサラダも飲み物も付くんです。)、母は自分が何を頼んだのかすぐ忘れます。

それはコウジさんもいつもそうですが、コウジさんの場合は、頼んだものが運ばれてくると、「ああ、そうだ、これを頼んだんだ!」 と思い出すのに対し、母は運ばれてきたものを見ても、「これ頼んだのかしら?」 と首をかしげるのが、コウジさんと違います。 
これは高次脳機能障害とアルツハイマーの違いなのでしょうか???
高次脳機能障害の場合は、経験はどこかの引き出しにしまわれるけれど、アルツハイマーの場合は、しまわれずにこぼれ落ちるのでしょうか?

食堂内の売店で、今日母は栗饅頭を買いました。 そしてそれが白いビニル袋に入れられると、食堂を出た時にまず「あら、これは何かしら?」と袋の中を覗いていました。

そして栗饅頭を見つけると、「栗饅頭を買ったのね。」 と言います。 その数分後、また 「これは何かしら?」 と言って袋を覗いていました。

そして、「すぐ忘れちゃうわね。 困ったわねえ。 アルツハイマーなの?」 と苦笑い。 (「断じて自分はアルツハイマーではない!」、と言い張りますが。)
父の病室に戻っても、帰る時も、何度も母は白い袋を覗いては確認していました。

私も嘆息つきながら、「あああ、こんなになっちゃうとはねえ。 変なおばあちゃんになっちゃったねえ。」 と思わず本音をもらしますと、母はくしゃっと笑っていました。

母は不安なのか、何とも思ってないのかわかりませんが、どちらかというと、あまり気にしていないように見えます。

明日は趣味の囲碁の集まりに行くようですし、売店での支払いもお札ではなく、小銭で払っていますし、まだまだすごく進行しているわけではないのかもしれません。

けれど、今、週に3回入ってくれているヘルパーさんに見守られている生活が、いつまで続けられるのか。
今後、母にもっと介護が必要になることは間違いないでしょうから、心の準備だけはいつもしています。

また1時間半かけて帰宅すると、すでに暗くなってきた中を、2度目のウメの散歩に出ました。
明日が冬至なので、これからはもう少し日が延びて、ウメの散歩も明るい中できるようになるかな。

それにしても帰宅すると、転がるように出迎えてくれるウメとハルの犬猫コンビを見ると、疲れも暗い気持ちも吹き飛び、笑顔になれ、元気が体の中に充満してくるのを感じます。

有り難い犬と猫たち。 
言葉を話せないけれど、喜んでいる気持ちは伝わってくるし、柔らかく温かな体を触ると、心が落ち着いてきます。

人間は言葉を使うから、面倒なこともある。
犬猫とだけ一緒に暮らせたら、心穏やかな気もする。
とにかく、有難う。ウメ。ハル。

結構疲れ気味の私ですが、今一番嬉しい、ワクワクするのは、コウジ村の仲間とのふれあいです。

夫コウジさんがプレゼントしてくれた、同じ経験を持つ仲間は、どんどん増えています。
この年になって、こんなにすぐ互いに打ち解ける友達が増えるなんて、思いもしませんでした。

コウジさんも、有難う。
コウジさんも、ずっと元気でね。

今夜はコウジさんの好きなカレーを作りました。
コウジさんは、大喜びで2杯食べていました。

(ワッチが話に出てきませんが、ワッチも元気でウメとハルを構ったり、カレーに喜んでいました。)

沖縄から帰ってきてから2日間は、起きていると頭痛がしてつらくて、時折寝込んでいました。

9月末から続いてきた講演会が終わったのと、父がとりあえずの危機を乗り越えたという安堵から、張りつめていた緊張の糸が切れ、疲れがどっと出たものと自己判断しています。

でも元々丈夫な私は、また昨日は元気を取り戻し、父の病院へ行ってきました。
父は鼻に入っていた管も取られ、お蔭さまで一時期よりは随分表情が良くなりましたが、痰は相変わらず多く、何か私に話すのですが、かすれ声でよく聞き取れませんでした。 
そのうち父はうつらうつらと寝てしまったので、私と母は病室を後にしました

病院が近かったなら、本当は毎日父の様子を見に行きたいところですが、片道1時間半かかりますと、自分の家のこと、用事がほとんどできないです。
父が今くらい落ち着いているなら、これからは週2回くらい行けばいいかな、と考えています。
毎日行っている母も、段々疲れてきて、今日は2人とも行きませんでした。
これで母の体調が悪くなるのも困るので、母も私も自分が疲れないようにしないと。

これ、父が九州や北海道で入院していたら、東京からは毎日行けませんし、毎月もきついでしょうね。
遠距離介護の人は、どうされているのでしょう。 もう諦めて、行かないのかな。
でも、行くと状態が良くなる気もするから、行かないというのはジレンマを感じますね。
父はどう思っているのだろう・・・。 もし私が父の立場だったら、どう考えるのだろう・・・。

今日は、コウジ村の仕事をしていました。
コウジ村とは、2013年3月に私が立ち上げた家族会です。 色々な方にお声かけしてきて、現在75名くらいいらっしゃるかな。

どなたでも入れるので、100名はすぐ集ってくれそうですが、最初はその人と症状、問題など把握していたのが、75名となると段々他の人とごちゃごちゃになり、書いてくれるようお願いしている各家庭のプロフィールを読まなくては、正確にはわからなくなりました。

しかも、皆さんずっと同じ症状・問題ということはなく、常に流動的で変化していますから、その都度加筆修正していて、頭も追いつきません。

仕事できなかった人ができるようになったり、逆に辞められたり、体の機能が改善したり、あるいは残念ながら亡くなられたり。 家族の方も進学したり就職したり、正社員になったり、辞められたり、色々です。

あさって日曜日は、コウジ村で集まれる人(地理的、時間的)で集まることになっています。
この間が8月でしたから、少しあいてしまいましたが、来年はもう少しコンスタントに集まりたいと思っています。

初めて来られる方も何人かいらっしゃいますが、実際お会いして話すことは、とても大切なことです。
情報交換し合ったり、アドバイスし合ったり、笑って元気になれ、そこから能動的に行動しようという気持ちになれます。コウジ村でこれからできること、色々ありそうです。

では、おやすみなさい。

明日は朝早く沖縄に発ちますので、今から用意です(遅いですね)。

一泊とはいえ、留守中のことが心配なので、大きな紙(模造紙を切りました)にコウジさんにお願いすること、ワッチにお願いすることなど、これから書きます(わあ、もう寝るのが午前になりそう)。

昼間は昼間で家事や買い物など用事があったとはいえ、なんでもうこんな時間なのか、さっぱりわかりません。

石巻から家族に迎えるはずだった猫2匹のことを、いまだに引きずっていますが、諦めた理由の1つに、やっぱりコウジさんがあります。

私の留守中(今回に限らず)、彼がうっかり猫2匹を逃がしてしまったり、犬のウメに噛ませてしまう事態が発生しないともいえず、そんな危険を冒してまで引き受けることはできなかったのです。

ハルや亡きおはぎちゃんはメス猫でしたが、石巻の猫はオス猫。 
オス猫はメス猫よりもっと活発で、我が家の2階バルコニーから道路に飛び降りてしまうそうですし、世田谷の密集地にある我が家から、隣近所へ屋根伝いに逃げられるそうで、飼うなら完全室内飼いにしないといけない、と言われました。 

ハルがバルコニーと家の中と自由に行き来しているのに、石巻猫だけ家の中、というのは、どうやったらいいのか、頭を抱えました。

ほかにも色々理由はありますが、とにかく我が家はウメとハルの2匹体制でいくことにしました。

石巻から連れてきて下さったのに、本当に申し訳ないです。

それでは、これから用意しますので、このへんで。

沖縄で、また新たな方がたとの出会いを楽しみにしています。

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