日々コウジ中

日々コウジ中 - クモ膜下出血により、さまざまな脳の機能不全を抱える“高次脳機能障害”になったコウジさんを支える家族の泣き笑いの日々

2016年01月

さきほど、大阪から帰りました。(今、夜の12時半です)。 さきほど、といっても11時ですが。、

今日は、東大阪での講演会でした。 主催は、当事者会「え~わの会」。
「え~わの会」の存在は知っていましたが、会の方達とお会いしたのは今日(もう、昨日になりましたが) が初めてでした。 

夫のような病識のない当事者を毎日見ている私は、ご自分の障害を認識し、日々発信され、講演会の主催までこなしてしまう、能動的な当事者の方とは、一体どんな方達なのだろう、夫とどこが違うのだろう、と非常に関心がありました。

そこで、ワクワク、ドキドキしながら、少しビクビクしながら、会場の大阪商業大学へ足を踏み入れました。

ビクビク、と言う理由は、私が夫のことを、『日々コウジ中』 『続・日々コウジ中』 の本の中や、講演会で、「こんな困ったことをするんですよ~」 「嫌になっちゃいますよ~」 と書いたり話したりしているからです。

同じ障害当事者の側にしたら、不愉快でしょうし、私のことキライかも知れないな~、と身を縮めながら講演依頼をお受けしたのです。
でも、それ以上にやはり私はとても 「え~わの会」 の方がたに興味があったので、ワクワクの方が大きかったですね。

お会いして思ったのは、やはり選ばれた方達だなあ、ということです。
夫と同じように脳卒中で高次脳機能障害者になり、命がなくなりそうになりながら不死鳥のように蘇っただけでもすごいのに、その障害を世に知ってもらおう、とまで動ける方というのは、元々相当なエネルギーと能力をお持ちだったのだろうな、と思うわけです。

もちろん、障害がとても重いわけではないからこそ(それはそれで、悩みや問題もあるのですが)、色々と考えられ動けるので、そこが選ばれた方なのだなあ、と思うのです。
夫はそういう問題意識を持てるほど病識がありませんから、当事者会活動は興味もないし、できないでしょうね(それとも、中に入れば、夫も目覚めるのかな?)。
ただ、夫は会社で高次脳機能障害とはこういうものだ、という例を日々披露しているので、それも立派な発信活動といえるかもしれません (夫をフォローして言うなら)。

ともかく、今までは私を含め当事者家族が、社会にこの障害のことを発信し、理解と支援を訴えてきたものですが、これからは当事者自身が発信していく時代が来たのだなあ、と思います。 

ところで、私が存じ上げている当事者会は、東大阪の「え~わの会」 と、東京(さいたま)の 「未来の会」 の2つです。もしかしたら、まだあるかもしれませんが。

当事者会も、47都道府県すべてにあるといいですし、脳外傷友の会のように横の連携がこの先できてくればさらにパワーアップするでしょうし、そのためには家族会 (当事者家族会) や、行政や、医療機関や、福祉機関や、民間機関や、ボランテイア団体などが、サポートした方がより活動しやすくなると思います (当たり前ですが)。

・・・ もう深夜1時半になりましたので寝ますけれど、今回の講演会には色々な立場の方達が集まられました。
当事者、当事者家族は勿論のこと、家族会、医師、弁護士、行政(大阪府も、京都市も)、社会福祉法人も、NASVA(独立行政法人自動車事故対策機構) の方も、民間の支援会社も。 有り難いです。

主催者である「え~わの会」の方がた、バックアップされている障害児者相談センター「わっトライ!」、後援の大阪府、協力の八尾ほっと・ケ~キの会、中河内圏高次脳機能障がい支援連絡会の皆様、有難うございました。

講演会が終わると、問題を抱えられた当事者ご家族や当事者ご本人が、質問や相談に並ばれました。
皆さんの話はそれぞれ複雑で深く、すぐお答えできるものも少なかったので、とりあえず名刺を差し上げ、改めて相談のメールを送って下さるようお願いしました。 結構、兵庫県からいらした方が多かったです。

さて、また続きは明日以降に書きます (こうして、書きかけの話が5つくらいたまっているので、順番に書かなくては、と思っています)。

大阪から帰ったばかりで家の中のこまごました片付けをしていると、夜12時に母から電話があったので、(随分遅い時間に電話してくるなあ!)、と呆れました。
けれどそこは咎めず、ひとしきり話したその5分後に、「今、なんで電話したのだっけ?」 とまた電話がありました。

疲れているし、眠いし、さすがに今度は咎め、「同じ内容の話ばかり。 きりがなくて迷惑よ!」 とむっと返事をすると、母は慌てて電話を切りました。

ん~・・・ この母への対応、きっと間違えている。 怒ってはいけなくて、優しく返事しないとダメなんでしょうね。 来週の父の四十九日が終わったら、母のことじっくり考えてなんとかしていかないと。

心配なのは、この深夜に、同じような電話を、私だけでなく、友達や近所の人にしていないか・・・ 迷惑をかけていないか・・・。

とりあえずもう寝ます。 おやすみなさい。

やはり忘れないうちに、今のうちに続きを書いてしまいます。

そう、色々な手続きがあるのは、葬儀会社でこれからやることを担当者から聞いていた時も同じで、次々言われる 「やること」 に、私の隣で聞いていた母は、「こんなにいっぱいのこと、子どもがいなかったらできないわ。子どものいない人は、どうするんですか?」 と聞きました。 私も同感でした。

すると担当者は、「そういう方もいらっしゃいます。たとえば、故人に関わりたくないご家族もいて、火葬にもいらっしゃらないので私が火葬に立ち会います。やはり存じ上げない方なので、お骨を私の自宅に持ち帰るのは躊躇われ、お寺に一晩預かってもらいます。そして納骨まで私が済ませます。」 「ですので、こうしてご家族の方がいらして下さると、ほっとします。」 と言いました。

ああ、そういう方もいるのか、気の毒だな、と一瞬思いましたが、気の毒だと思うのは、こちらの勝手な思いであり、もしかしたらその亡くなられた方は普段から孤高の方で、何とも思っていないかもしれません。

4日前になりますが、20日に父が亡くなった病院へ行ってきました。父が亡くなってから初めての訪問ですが、多分最後の訪問です。 父がなぜ急に亡くなったのか、何が起きたのかわからず、この1か月悶々としていましたので、主治医に死因など詳しく伺いに行ってきたのです。主治医とお会いするのも、先月の21日以来1か月ぶりです。面談の予約を入れ、それに先立ち、質問などを書面にして主治医に送っていました。

主治医との話合いは、30分ほどで、丁寧に説明してくれました。そして何度も謝罪をしてくれました。
要点だけ書きますと、先月21日、私が病院へ行った時、父は元気でした。主治医も胃瘻手術の経過は順調、と前向きで明るい話ぶりでした。
けれど翌22日に父の容態が悪くなりました。そして23日夜に亡くなりました。 22日と23日には、主治医は不在だったそうです。

父が亡くなるほど悪いとは思わなかった現場の医療職の方がたから、主治医への連絡は両日ともなく、父が亡くなり病室から葬儀会社により運び出された翌朝の24日、主治医は病院へ来て、初めて父の死を知り、驚いたそうです。急変の時には、主治医に連絡がいくことになっていたそうなので、それがなかったことを、主治医は何度も詫びていました。

私は父の状態については主治医に連絡がいっているものと思っていましたので、その事実はショックでした。
父は結局2日間、適切な治療を主治医から受けることなく、母と看護師さんに見守られて亡くなったのでした。死亡診断書は、宿直医の皮膚科の先生が書いてくれました。
胃瘻手術を2週間前に受け、まさにこれから回復していこう、という意志を持っていた父は、どんなに無念だったことでしょう。

父の死に顔は、とても悔しそうで、忘れられません。(そのあと納棺師さんが、きれいに整えてくれましたが。)
その時の写真を、主治医に見てもらいますと、主治医は絶句され、「このお顔は、死にたくない、というお顔です。胸に来ます。本当に申し訳ないです。」 と言われました。
それを聞いて、私はこらえきれず泣きました。 父も無念だったでしょうが、私も無念です。

もし22日や23日に主治医がいて治療してくれたら・・・ あるいは、せめて宿直医が外科か内科の先生だったなら・・・
もしかしたらまだ父は生きていて、もしかしたらまた回復してきて、胃瘻で栄養も薬もうまく取れるようになって、車椅子で花見もできて、自宅に外出や外泊もできて、もしかしたら車椅子で旅行までしたり・・・ その可能性もあったかと思うと、もう、何も言えません。

もちろん、やはり今回は回復できなくて、亡くなることが避けられなかったとしても、せめて最期は主治医に看取って頂きたかった・・・ 

これが療養型病院の限界であることを、初めて知りました。 もし知っていたなら、23日の昼間私は病室にいたわけですから、「主治医に連絡して下さい!」 とお願いしていたと思います。 でも、現場の人たちも、(多分大丈夫だろう) と判断されて連絡しなかったわけですから、仕方ないのかもしれません。

色々考えること、思うことはありますが、この3日間ずっと考え続け、やっと現実を受け入れ、納得することにしたところです。
まだ毎日泣いていますし、きっとあと1年は泣いていると思いますが、最後まで 「生きたい」 という姿勢を貫いた父を誇りに思い、これからの人生、父の教え、生き方を胸に生きていきたいと思います。

父を81歳で亡くしてこれほど悲しく辛いのですから、軽井沢のスキーバスツアーで命を絶たれた大学生13人や、そのご家族の悲しみの深さは、いかばかりかと思います。
この事故は、バス会社やツアー会社の責任であり、大型バスの運転が不得手で運転したくながっていた運転手も、被害者だったと思います。
安全よりコストを重視する業者へのチェックを怠っていた、国の責任もあります。責任、責任といっても、亡くなった若者達の命は返ってきません。
これからの人生、どんなに素敵なことが待ち受け、どんなに活躍をされ、どんなに幸せだったかを思うと、可哀想でなりません。ただ、もう2度とこのような事故を起こさないことが、せめてもの供養になるかと思います。

また、親に虐待され亡くなった3歳の女の子の事件も、ひどい。こういう人達は、親になってはいけないでしょう。
周りの住民からの通報もあったのに、結局は見過ごした行政にも、やはり責任があると思います。 虐待か、そうでないかの判断は難しいのかもしれないけれど、可哀想なのは犠牲になった子どもです。 

見渡すと、悲惨な事件ばかりで、私も最近いつもしかめっ面をしています。

今週末の30日は、東大阪で講演会があります。 今回で69回目の講演になりますが、当事者会主催の講演会というのは初めてです。
高次脳機能障害のことを社会に伝えるには、当事者家族だけが大変さを訴えているのでは片手落ちで、肝心の当事者の方が話されることが必要でとても大事だと思います。

私の夫のコウジさんは、当事者としての自覚が薄いため、自らそういう活動はできないと思いますが、近くに当事者会があったなら、入ってもらいたいと思います。
そうしたら、自分の障害に改めて向き合い、何か彼の中で進展が起こるかもしれない?

そういえばコウジさんの話が最近出てきませんので、ここで少ししますね。

先週だったか、コウジさんは会社から、ほかの人の背広とコートを間違えて着て帰宅しました。
その人も、コウジさんと同じように背広とコートを重ねて脱いでハンガーに掛けていたそうです。 (会社は室内が温かいので、ワイシャツで仕事しているそうです。)

帰宅して、下のズボンはグレーなのに、背広が紺なのに気付いたコウジさん。 びっくりしていると会社から電話があり、間違えたことが判明しました。
翌日からコウジさんのハンガーにだけ、名前がシールで貼られたそうです。 「特別ハンガーだい!」 と喜んでいますが、喜ぶ場合ではないと思います。

また、急になぜ思い出したのかわかりませんが、NYのツインタワー (ワールドトレードセンター。2001年の同時多発テロで崩壊。) のことを話し出したコウジさん、「ああ、ここにビルがあったんだよね、と2人で跡地を囲った壁の周りを歩いたよね。」 なんて言うのでびっくりしました。

たしかに私とコウジさんは、まだビルが建っていた、1990年に当地を訪れ、最上階まで一緒に登ったのです。けれど、崩壊したあとになど、行っていません。

私がそれを指摘しますと、「え、そうだったっけ?」 とびっくりするコウジさん。
そばで聞いていたワッチが、「この障害って、昔の記憶は無くならないんじゃなかったっけ?」 とすかさず言いました。
私も、はっとして、「そうだよね、たしかに言う通り。 じゃあ、これは何? ボケたの?」 と気味悪くなりました。

果たしてコウジさんはボケてきたのでしょうか、それとも、いつもテレビを見ているから、跡地を囲った壁の周りを歩いている誰かを見て、自分の記憶とごっちゃになったのでしょうか。

多分そうだと思いますが、いやはや、これは作話(さくわ)でしょうね。

それでは、また。

寒いですね。
寒いの大好きな私も、さすがにこの寒さにはタートルネックの服を着、お風呂も指がシワシワになるくらい、長くつかっています。

相変わらず用事に追われる毎日で、今日はお香典返しのリストを作っていました。
父はまだ亡くなったばかりだという気がするのに、もう今日が初めての月命日で、来週末は四十九日の法要です。

葬儀も四十九日の法要も、やっぱり私一人で準備していますが、葬儀も動く人が1人いれば、なんとかできるものなのだなあ、と感心しています。勿論、葬儀会社やお寺(うちの場合は同じところ)が色々やってくれるので、なんとかできているのですが。
仏壇や位牌も用意し、今は四十九日法要の時のお供えや料理、卒塔婆などを決めているところです。

一方、できていないことがいっぱいあります。たとえば父が契約者だった諸々のものの名義変更。
戸籍謄本が要たり、住民票が要たり。住民票は横浜市で取ったけれど、本籍が東京のままなので、東京で取らないと(まだ取りに行く時間がありません)。
父の年金手帳、年金証書、母の年金証書、母の課税非課税証明書、母の通帳等も要りますが、年金証書がどこにあるか探さないと。どこだ~? 

これらが揃わないと、年金事務所で手続きできません。その時には母を連れて行くと母が疲れてしまうので、日本年金機構のHPから、母の委任状を印刷して持って行かないと。
そこに捺印してある印鑑と、年金事務所に持って行く印鑑は同じでないといけないのだそうです。 もう、コウジさんが倒れた時以来の手続きの多さに見舞われています。

父が契約していた生命保険は、今後母を契約者にするので、母の印鑑証明書が要るそうですが、そもそも母は印鑑登録していないので、まず印鑑登録しないといけないらしいです。(ちなみに父は81歳で亡くなりましたが、80歳までの保険契約でしたので、今回保険金受領はありません。)

もう面倒臭くて、思わず電話で保険会社の方に、「戸籍謄本を取りに行ったり、印鑑登録に行ったり、そんなすぐできません。四十九日の準備もあるし、私も仕事があるし、無理です。(今月15日まで提出、と書いてあったので。)提出が遅れると、こちらにはどういうデメリットがあるのですか?」と聞きました。

すると、契約が切れてしまうそうなので、とりあえず書類は後でもいいから、保険料の振り込みを先にしてほしいとのことで、書類が送られてくるそうです。はい。

でも、母のこの保険は果たして必要なのか、保険料に見合う保険金がこの先もらえる事態になる可能性はどのくらいあるのか、よく考えたいと思います。

・・・とこの先長い文章を書き終え、いざ投稿、と思った時に、こんな深夜ですが電話があり(特に急用ではなかった)、パソコンの前に戻ってきたら23時58分。 23日に投稿するには、あと2分しかない、と焦ったら操作を間違え、このあとの文章が全て消えました(涙)。

茫然としている私を、ワッチがケタケタ笑っています。

もう今日はこれ以上書く気が失せましたので、また明日(もう今日ですが)に思い出しながら書きますね。

おやすみなさい。

というわけで、ぐったりなのでありました。

なんだかとっても忙しくて、ブログを書けないでいる。
昔、母から「忙しい、と言われるのはあんまりいい気持ちがしないわよ。」 と注意され、(たしかに、そうかもしれないなあ。)、と極力言わないようにしたいのだけれど、ほかに今の状況を説明する適当な言葉が見つからない。

私が送った父の死を伝える寒中見舞いを読まれたり、人から聞いたりして、父の友人達から電話や手紙やお線香が届くので恐縮している。 

実は、父が亡くなる2か月くらい前から父と同じような80歳近い方達と、電話やメールやりとりをしてきた。 お見舞いにも来てくれていた。
80歳という高齢でも、40代50代の私の友人達と同じように、軽妙に迅速に話したり書いたりされることに驚き、感心していた。ちっとも 「お年寄り」 という感じがせず、「若者」 と変わらないのだ。

どちらかというと言葉少なかった父とは、このような生き生きした会話ではなく、ゆっくり、重々しく話 (話すというより注意や指示を受けることが多かった。) をしてきたので、80歳くらいの方は、そういうものだと思っていた節があるが、どうも違うらしい。

そういえば昨夜NHKで、104歳の日野原重明さんと、103歳の篠田桃紅さんの番組を用事をしながら見ていたけれど、100歳越えても尚、あのように頭が冴えられ、多くの教えを口にされるお2人にびっくりした。

さて父の友人達は、皆一様に父のことを 「寡黙で控えめな人だけれど、何でも知っていて、1から仕事を教わってきた、お世話になってきた。」、と感謝して下さる。
受話器を握りしめて有り難く話をしながら、亡き猫おはぎちゃんの写真の隣に飾った父の写真を見て、改めて父の偉大さを知る。

私も父は大変頭のいい人だと尊敬していたけれど(勉強もできて、高校生の時父は、模試で全国で一桁の順位だったそうだ)、とにかく余り多くを語らない人だったので、家での様子は知っているけれど、会社での様子はほとんど知らなかった。
ある部下の方は、会社での父のことをこれから書いてまとめ、私に送って下さる、と約束もして下さった。

私は父のことが大好きで、とても尊敬していたのだけれど (多分、この世で一番尊敬していた)、本当のところ、父のことをどれだけ知っていたのだろうか。

父は裕福な家に育ったけれど、学童疎開で食べるものがなく痩せ、家は東京大空襲で焼け、勉強がとても好きで、またとてもでき、会社でも役員にまでなったけれど、山が好きでいつかカナダかスイスへ行きたい、とパスポートをとっていた。 けれどぜん息の母が飛行機に乗れないので、1人で行くことはせず、結局1度も海外へ行くことはなかった。 私が連れて行ってあげたら良かったのだけど、私もコウジさんが病に倒れてしまい、それどころではなかった。

私にとって父は、日本酒や整理整頓、あんぱんとサイダーが好きな静かな人、くらいしか人に説明できない。なんてことだ。

これから父とゆっくり話したり、車椅子を押して行きたいところに一緒に行こうと思っていたのに、叶わなくなってしまった。
ほぼ毎日病院へ行っていたのに、ウメの散歩や家のことや仕事のことが気になって、ろくに話さず帰ってきてしまっていた。
ただ1日だけでもいいから、じっくり父のそばで話しかけ、話を聞くことをなぜしなかったのだろう。 ・・・ ええ、まだ死なないと思っていたから。

心配な時は、病室に泊まることも考えていたのに、1度も泊まることをしないで、いつも帰ってきてしまっていた。 ・・・ ええ、コウジさんとワッチとウメが心配だったから (猫のハルは留守番は大丈夫)。

はあ、もう後悔ばかりだ。 今更遅いよね。 
まだ親が元気な皆さんは、是非今のうちに色々話しておいて下さいね。

私は結局、「有難う」 すら父に言えないまま、父は逝ってしまった。
「有難う」 と言ったら、それはまるで別れの挨拶のような不吉な気がして、言えなかったのだ。
言っておけば良かった。 うちひしがれて、途方に暮れている自分がこの上なく情けない。。 

役所や年金事務所に電話すると、今窓口はとても混んでいるというので、母に委任状を書いてもらって、頃合いを見て私だけ手続きしに行こうと思う。

昨日は父の携帯を解約、今日はクレジットカードを解約した。 父は9月の入院以来、一度も自分の携帯を使うことはなかったなあ。
パーキンソンと言うのは、体の動きが不自由になるから、父は携帯を操作できなくなったし、言葉を発するのも困難になってしまった。 色々なことを思い、考えていたと思うので、それを周りに伝えられず、理解されず、どんなにつらかったことだろう。 (ALS患者の、「ロックドイン」 という状況に近かったかもしれない。)

・・・ ダメだ、何を見ても考えても、父のことに頭がいってしまう。 ウメの散歩をしている時など、ずっと考えていて、気づくと泣きながら歩いている。近所の人と出会うと、泣きながら挨拶し、話している。 しばらくは立ち直れないです。

明日は母と仏壇、位牌、葬儀代の残金支払、四十九日法要の打ち合わせその他で、お寺(葬儀会社)へ行く。

今年はこの母のことで、また動きがあるだろう。
母のアルツハイマーが、進行しているような気がする。 様子を見て、また病院へ連れて行かねばなるまい。
ケアマネさんとの相談も、今月中か来月中にはして、どうしたらいいか考えなくてはならない。

ところで 『日々コウジ中』 のような、アルツハイマーのマンガがあればいいな、と思ってアマゾンで調べたけれど、適当なものがないではないか。

『ぺコロスの母に会いに行く』 は以前読んだけれど、私が今欲しいものとはちょっと違うようだ。 初期から中期、どんどん進んでいくアルツハイマー患者とその家族の様子がわかる、できるだけ詳しいマンガが読みたい。

ワッチに 「そういうのがないんだよね。 高次脳機能障害なら、あるのに (『日々』『続・日々』のこと)。」 とぼやくと、「じゃあ、自分で描けばいいじゃん。」 と言う。

ええっ? とびっくりして、「無理無理、考えもしないこと言わないで。 もう高次脳機能障害だけでいっぱいいっぱい、高次脳機能障害だってまだやること沢山残っているのに。」 と答える。 
アルツハイマーまで描いていたら、私の人生終わっちゃうよ。 少しは自分だけの時間も欲しい。

アルツハイマー患者は多いのだから、描いてくれる人はいくらでもいるのではないか? 描いて下さい、お願いします。あるいは、そういうマンガを御存知の方は、教えて下さいますか? やっぱりマンガがいい。 絵があった方がわかりやすい。

ということで、この本が私の欲するものに近いかな、とマンガではないけれど、『毎日がアルツハイマー』 という本を買った。映画にもなっているそうだが、今半分くらいまで読んできたけれど、この作者はスゴイ!

大学卒業後、海外へ飛び出し、オーストラリア人と結婚し、出産、離婚をし、映画監督になり、帰国してアルツハイマーの母親を介護しながら、精力的に仕事をしている。しかも、底抜けに明るい。軽い。 

まだ半分しか読んでいないけれど、このお母さんのアルツハイマーは、どのくらい進んでいるのか気になる。 発症から何年も経っているのに、発症半年の我が母と比べると、随分しっかりしている気がする。
あるいは、我が母の発症は、もっと前だったのかもしれない。やっと私の手があいて母を病院に連れて行く前から、母はかなりおかしかったから。

高次脳機能障害も色々だが、アルツハイマーも色々のようだ。 パーキンソも色々だ。 それでも作者のこの前向きな明るさは見習いたい、と思う。

「母よ、あまり進まないでくれ~!」 と願う年明けでした。 

ではまた。

と、最後に1つ。 年はじめからずっと怒っていることがあり。
1月3日から続いている東京新聞のシリーズ記事が気になっています。
それは 「新貧乏物語」 として、奨学金の返済に追われる人たちの話です。

このテーマについてはまた書きたいと思いますが、お金があるかないかで、学ぶ機会を著しく制限される今の日本は絶対間違っていると思います。 奨学金は貸与ではなく給付にすべきだし、貸与でもせめて無利子にすべきです。

学ぶ機会は、全ての国民にとって平等に受ける権利があるに決まっています。
日本はなんて遅れている国なのだ。 がっかりで腹立だしく、めまいがします。

すみません!
ここでお礼を申し上げるのを、すっかり忘れていたことに気づきました。

先月24日のこのブログを読まれ、たくさんの方からお悔やみのメールや、ブログへのコメントなど頂きました。有難うございました。
 
頂いた順にお返事を送っていますが、まだまだ追いつきません。
1つ1つの優しい労わりや励ましの言葉に、心温まり、慰められています。

取り急ぎ、ここでお礼申し上げます。

関東は、暖かな年末年始です。
今朝ウメと散歩していた時、桜の木を見上げましたら、蕾の元になる?小さな芽(なんと呼ぶのでしょう?)が、もう沢山ついていました。


これから雪が降る日もあるかと思いますが、春は着実に近づいていますね。

今年の春は、車椅子を押しながら父と花見をしたかった・・・
一度でいいから、したかった。

「花見できて良かったね。」「もっと良くなるよね。」と笑い合いたかったです。

きりがないけれど・・・

それだけはしたかったな、と思います。

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