日々コウジ中

日々コウジ中 - クモ膜下出血により、さまざまな脳の機能不全を抱える“高次脳機能障害”になったコウジさんを支える家族の泣き笑いの日々

2016年11月

野良ビト


今日は、木村友祐さんの 『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社) の発売日です。
私は『月刊新潮8月号』ですでに読みましたが、ホームレスさんを取り巻く環境を、読みながら学べる小説と言えるかもしれません。街中ではなく、河川敷に住んでいるホームレスさん達ならではの話ですが、どこか星新一さん的な未来の風景が、クールでドラマティックに描かれています。でもそれは決して未来ではなく、明日にでも起こりうる緊迫感を伴っているのです。また、出てくる地名が全て実在の地名をひねったユーモラスなものなので、それを目にするたびにクスクス笑えたのが、重い内容を軽く読むための作者の気の利いた細工にも思えました。

今回単行本になるにあたり、小西修さんの撮られた写真が表紙となると聞いていたので、昨日夜アマゾンに注文して今日送られてくるのを、今待っているところです。皆さんも是非お読みください(夕方届いたので、早速ここに表紙画像を貼りました。でも家の中で電気をつけて撮影したので、見づらくてすみません)。
私はこの小説が面白かったので、木村さんのほかの本 『海猫ツリーハウス』 も買って読み始めているところです。
やはり読書っていいですね。読もうと思って手元に置いてある本が、もう数十冊あるのですが、なかなか時間がとれません。

昨日、いつもウメの散歩に行っている近くの大学の学生さんが1人、冬山で雪崩に巻き込まれて亡くなった、というニュースに悲嘆に暮れています。まだ21歳とのこと。 81歳で亡くなった父でさえ、こんなに悲しくて惜しんでいるのに、こんな若く亡くなるなんて。 もっと小さい子どもや赤ちゃんも、事件や虐待で亡くなったというニュースが途絶えませんが、若い人が死んでしまうことほど、つらく悲しいことはありません。本当に残念です。

特に、毎日のように散歩しているその大学の学生、というので、もしかしたらキャンパスですれ違ったことがあるかもしれないし、その学生も意気揚々と歩くウメのことを見てくれたことがあったかもしれない。いえ、そんなことはどうでもいいのですが、とにかくすぐそばにいた若い人が亡くなった、ということが余計ショックで、何度も涙がジワジワと出てきます。そして一緒に雪上訓練していたというほかの5人の学生さん達の心の傷も、どれだけ深いことか。仕方ないとはいえ、何もその時そこに、雪崩が起きなくてもよかったのに・・・ 
亡くなられた学生さんのご冥福を、心からお祈りします。 

最近コロンビアでも、到着したその日に銃で撃たれて亡くなった大学生がいました。簡単に人を殺す国では、細心の注意が必要だということを、日本国民に知らせた事件でした。その学生は、電子機器(スマホやタブレット端末)を手に歩いていたそうです。でも、それを奪うために、何も命まで取らなくてもいいじゃないですか。命は1つしかないのに。犯人に対して頭に来て、腸が煮えくり返る思いです。
危険な地域には、やはり近寄らないに限るのですが、その学生は自分の目で、発展途上国を見たかったとのこと。将来、そういう国々を支援する仕事に就きたかったとのこと。そんな尊い考えと勇気を持っていた前途ある若者が失われたことは、世界にとっても、とてもとても大きな損失です。
命は、この世で一番大切なものです。自分の命も他人の命も大切にしないといけない、そんな簡単なことがわからない人間が多い、悲しい地球。

昨年の今日亡くなった水木しげるさんは、戦争で九死に一生を得たあと、ものすごい熱意とともに次々世に出してきた作品で伝えてきたことは次のようなことだ、と奥さんの武良布枝さんは言われています(11月24日朝日新聞夕刊18面より)。
「人間って何てばかなんだろうな。短い人生に狭い地球でこれだけ殺し合いをしたりすることは、本当に愚かなことだ。」

その水木さんが亡くなったというニュースを病院のテレビで私と一緒に見ていた父(その3週間後に亡くなるなんて、私も父も思っていなかったのですが)も、「戦争中は不合理なことばかり行われていた。しかし戦争に勝たなくてはいけないと教え込まれていて(父は当時小学校低学年でした)、悲しいとかは思わなかった。戦争の思い出はおなかがすいていたことばかり。戦争で人生が狂ってしまう人がいっぱいいた。戦争は絶対しちゃいけないよ。」と、当時小学5年生だったワッチに教えていました(ワッチは学校の自由研究に、祖父から聞いた戦争、主に疎開の話を選んでいました。私もいい機会と思い、一緒に父の話を聞いていました)。

また、よくここでご紹介している宮崎の「いのちのはうす保護家」さんでは、明日殺処分予定の犬が3匹いるとのこと。最近は「保護家」のこのような情報が色々な人にシェアされて、どなたかしらが里親に名乗り出て下さり、命がつながってきています。有難いことです。
でも明日も大丈夫だという保証はなく、私もここで拡散して、少しでもその子たちが救われる可能性を大きくしたいと思います。どうか、里親が見つかりますように。そして、宮崎県以外の46都道府県でも、里親を探している犬猫の命が救われますように・・・ 保護家さんのブログは→ http://pawstamp.com/hogoya/ です。

最後に、昨日のブログへのつけ足しですが、「会報に書けなかったこと」に登場してもらった、救急病院の忙しくて冷たい医師。
私はその医師に閉口して、逃げるように父を転院させましたけれど、何かにつけて相談していた医療職の知人が、「お父さんの治療をして命を繋げてくれたことは確かなのだし、(喧嘩別れするより)ちゃんと挨拶して転院した方がいい。またお世話になることもあるかもしれないのだし。」とアドバイスをくれました。
むくれていた私ですが、頭を冷やして、それもそうだと思い、何かお菓子でも(先生へというよりナースステーション全体へ)渡した方がいいかを尋ねますと、「医師が一番喜ぶのは、お菓子でもお金でもない、感謝の手紙です。」という思いもかけない返事をもらいました。

え、そうなの?と半信半疑ながら、私は医師へお礼の手紙を書いて退院の日に渡しました。
すると、それまで大きな声で威圧的に話していた(私が勝手にそう感じていただけかもしれないけれど)その医師は、手紙を差し出した私の前で虚を突かれたようにたじろいだ後、急にパアッと笑顔になって、「あ、有難う。いやあ、でも、ここまで良くなって本当に良かったよね。また何かあったら来て下さいね。まあ、何かあったら困っちゃうけどね。ハハハ。」と、冗談まで言って笑ったのです。父も笑っていました。

私はそれを見て、(もしかしたらこの先生は本当は優しい先生で、ただ忙しすぎるからいつもツンケンしていただけなのかもしれない。悪いのは救急病院の忙しさであって、この先生は父にとって一番いい治療を効率的に考えて下さっていたのかもしれない。)と思いました。そして、知人のくれたアドバイスの的確さに驚きながら、感謝しました。

皆さんも、私と同じような目に遭っていましたら、医師に手紙を書くのはいいかも知れませんよ。

では、ウメがワンワン言ってますので、散歩に行ってきます。

今週末の4日日曜日は、江戸川区のタワーホール船堀では長谷川幹先生(三軒茶屋リハビリテーションクリニック院長)のご講演が、福岡のアクロス福岡では渡邉修先生(東京慈恵医大附属第三病院リハビリテーション科教授)のご講演が、京都の府立医科大学図書館ホールでは小林春彦さん(『18歳のビッグバン 見えない障害を抱えて生きるということ』著者)のご講演があるなど、高次脳機能障害関係の大きな講演会が目白押しですね。 
お近くの方は是非行かれて下さいね。色々な方と繋がれたり、貴重な情報を入手できるチャンスです!

来週10日(土)は町田市の市役所で私と三沢さん(多摩丘陵病院)の講演が、札幌の北海道大学学術交流会館では納谷敦夫先生(なやクリニック医師)のご講演がありますね。
・・・皆さんも、国立障害者リハビリテーションセンターのHPから、「高次脳機能障害情報・支援センター」 → 「イベント情報」へ進まれて、講演会情報を時々確認されて下さいね。 私もそこで確認しています。尚、町田市講演は載っていませんので(市のHPには載っています)、きっとここに載っていない講演会も多数あるはずです。なるべく地元の広報誌やHPでもチェックして下さい。秋は講演シーズンなのです。
先週土日にも広島で上田敏先生や野々垣睦美さん(クラブハウスすてっぷなな)のご講演、白山靖彦先生(徳島大学教授)のご講演があったんですね。

昨夜は私の方がウメより先に布団に入って、(やれやれ、久しぶりに足を伸ばして、布団を肩までかけて寝られるわい。)とほくそ笑んでいたのに、後から来たウメがなんと私の左隣に陣取ってしまい、大きな体を伸ばして寝てしまいました。その時私の右側には子猫のチー(中猫になってきた)が既にぴったりくっついて寝てしまっていたので、まるで身動きできなかった私は、やはりゆっくり寝られず、トホホです。でも、可愛い犬猫にくっつかれて嬉しい気持ちがあるため、無理やりどかさない自分が悪いのです。ということで、この夜のバトルは一向に解決せず、ただ私の寝不足と筋肉痛だけが続くことになります・・・ う~ん。やっぱりなんとかしなくちゃ。

さて、今日はパーキンソン病友の会会報には書けなかったことを、ここに書きます。会報向け原稿には、あまりきつい表現や、一触即発のやりとりの場面はふさわしくないため書かなかったのですが、当時どうしても私のもやもやした気持ち(怒りや疑問を含め)を誰かに伝えたくて、残したくて、会報担当の方に以下の文章として送ったものです。でも、きっとこういうことはどこでも誰でも、経験した(する)ことだという気がします。

作家の落合恵子さんは、お母様の介護を通されて書いた『母に歌う子守唄 わたしの介護日誌』とその続編の中で、こういう医師と患者の間に存在する上下関係を「パターナリズム」(家父長主義)という言葉で問題視されていますね。落合恵子さんの本はほとんど全部読んでいますが、この本と続編は、親の介護をされている人たちには、是非読んでほしいです。

「会報に書けなかったこと」

会報向け原稿には書き足りていない、あるいは書けなかった部分が特に大きく2つあります。
その1つは、私が講演に仙台へ1泊で出かけている間に、担当医が勝手に父に経鼻栄養処置を施していたことに関してです。仙台へ行く前の話し合いでは、「お父さんは嚥下ができなくなったから、経管か胃瘻か中心静脈の3つの道がある。どれを選ぶか考えておいて下さい。」、とのことでした。私としては、嚥下できなくなったという若い言語聴覚士の言葉をうのみにした?担当医に不信感があり、もっと嚥下リハビリを熱心にしてほしいという気持ちでした。ところがまだ返事をしていないうちに(父は点滴のみでした)、仙台から戻った翌日に病院へ行きますと、既に父は経鼻処置をされていたので驚き、その理由をすぐ問いに行きました。すると担当医は大きな声で「嫌ならとってもいいですよ?」と言うのです。
高圧的な物の言い方にひるみながらも、「とったらどうなりますか?」と聞きますと、「そりゃ、栄養低下で全身不良か、多臓器不全で老衰死ですね。」と何の感情も入っていない返事でした。患者やその家族への労わりなど、皆無でした。

私は怒りを感じながらも、せっかく父が痛い思いをして装着された管を又はずすのもためらわれ、医学的知識もその医師よりは当然少ない私は、「死なれては困りますから、そのまま装着しておいて下さい。」と言うしかありませんでした。そして、内心(なんでこの医師はこんなに不機嫌なのだろう?)と考え、性格かもしれないけれど、機嫌を損ねられては父に不利益だと思い、「先生は、経鼻栄養を早くしないと父が栄養失調になると思って、処置を施して下さったんですよね。有難うございました。」とお礼まで言いました。本当は私の了解を得てから装着してもらえれば良かったのですが、救急病院の医師は忙しいのもわかりますから、仕方ないのかと諦めました。

そのほかにもこの医師は、「お父さんの肺には腫瘍のようなものが見えるから、検査しましょう。」と言いました。その検査のために、父が服用しているバイアスピリン(血をサラサラにする薬)を1週間くらい止めると言うので、「待って下さい。その前に父のパーキンソン主治医の神経内科医に、バイアスピリンをとめて検査を受ける危険性について相談したいです。」と言いますと、そこはナースステーションの中でしたが医師は激怒し、「神経内科医は肺のことは何もわかりませんよ!何を聞くつもりなんですか?神経内科医は肺の手術はしたことがない!僕たち呼吸器科の医者じゃないとわからないんです!嫌ならやめましょうか?」と怒鳴るのです。ステーションの中にいた看護師さんたちは静まり返って手を止めて、私と医師の会話に耳をそばだてているのがわかりましたし、医師の言うことにも一理ある気もしたため、「わかりました。すみません。では検査お願いします。」と謝罪して(なんでこの医師には謝罪ばかりしなくてはならないのか、不満でしたが)検査を承諾したのです。

けれど帰宅してすぐ神経内科医に電話で相談しました。すると、「今救急病院にいるのだから、やはりそこの医師と相談して下さい。私が口を出すことはできないです。」と言いながらも、「ただその検査をバイアスピリンを止めてしても、パーキンソンだから悪影響がある、ということは多分ないでしょう。」と言ってくれましたので、やっと納得して検査を受けることにしました。
・・・ところが腫瘍と思われたものが、検査前に小さくなってしまったので、これは腫瘍ではなかった、ということで結局検査もなくなりました。 それを知った時、(では父は、あと少しで、要らない検査をバイアスピリンを止めて受けるところだったのか。)、と益々不信感が高まりました。
そのあたりのやりとりは、会報への寄稿文には入れていません。直接パーキンソン患者・家族の読者には、関係してこないやりとりかもしれない、と思い。けれど、私が父の転院を急いだのは、この医師のもとにいては、父も私も嫌な思いをし委縮するばかりで、心にも体にも良くないと思ったからなのです。

2つ目は、転院先の療養型病院での父の主治医が、父が亡くなった日とその前日は不在で父のことを全く診ていなかったし、病状が急に悪化したことも全く知らなかった、という事実に対する主治医の謝罪の場面です。
主治医は私に、何度も何度も頭を下げられ、「申し訳ありませんでした。病院内の連絡がうまくいっていませんでした。症状変化の時には連絡が来ることになっていたのですが、一度も私には連絡が来ませんでした。今後連絡を徹底します。」と謝られたのです。基本的なことがなされていなかった事実に呆気にとられましたが、この主治医自身は温かな人で、頻繁に私と面談してくれるなど、私は信頼していましたので、その医師が禿げた頭を何度も私の前に下げられる(看護師長が同席しているにもかかわらず)姿を見ましたら、もう何も言えませんでした。

主治医に連絡しなかった看護師は、休日で休んでいる医師へ連絡することに躊躇があったのでしょうか、面倒くさかったのでしょうか、原稿に書いたように本当に父はまだ大丈夫だと思ったのでしょうか、わかりませんが(父が亡くなった後、私を避けていましたので)、看護師のせいで父は亡くなったのではないか、と腹立だしく思っています。訴えたら訴えられるケースだったかもしれませんが、争いや派手なことを好まない静かな良識人だった父が、訴訟なんて望まないのはわかりますので、それはやめました。けれど父の死を無駄にしたくはありませんでしたし、同じパーキンソン病患者・ご家族やほかの一般的な患者・ご家族へのアドバイスになるだろうと思い、寄稿することにしました。医師への気配りと一応の感謝が、この場面を書かなかった理由です。

私は父を2か月半自宅で介護した後、老健、老人ホームと父の居場所が移り体調も落ち着いたことから、昨年9月27日から12月14日までの3か月間に10回の講演(釧路や仙台、沖縄、京都など遠方を含む)を入れておりました。すると予想外に9月22日に肺炎を起こした父は、あれよあれよという間に衰弱、私の年内の講演予定が全て終わった12月23日に亡くなってしまいました。
講演はさすがに行かないわけにはいかず、父のそばにいられる時間が限られてしまったことが、とても残念ですが、それは仕方ありません。自分の胸に閉じ込めた思いです(ここに書いてしまいましたが)。

また、夫が高次脳機能障害者であることから、病院にいっぱなしというわけにもいかず、犬の散歩もありますから、病院にいられる時間は毎日数時間でした。(東京の家から横浜の病院まで、往復3時間です。)また、娘が大学受験中でした。犬や娘はともかく、夫が障害者でなかったなら、家のことは夫に任せられましたが、任せるどころか夫が心配で父のそばにいられなかった、父の最期に間に合わなかった、という思いも苦しいものです。(これも口には決して出してはいない思いです。同じく、ここに書いてしまいましたが。笑。)

・・・ というわけで、もうすぐ父が亡くなって1年経つというのに、一向に私の心の中は穏やかになりません。
コウジさんに聞きますと、自分の父(私にとって義父)が亡くなってから3年はやはり寂しかったそうなので、あと2年は仕方ないかな、と思っています。

今日のブログは、ちょっと湿っぽくなってしまい、すみませんでした。

木谷正道さんから、来月11日の心のコンサートのお知らせがありました。
先日ここでもお知らせしましたが、迫ってきましたので改めてお知らせします。是非皆さんいらして下さい。
私もコウジさんも、木谷さんの大ファンですので勿論行きます。
けれど、10年続けてこられたこのような大きな会場での定期公演は、今回をもって終わりにされるそうなんです。(とはいえ、また新しい形での活動を始められるとのことで、ほっとしました。)

【心の唄’16  共に生きる 10周年&しばしのお別れ】
日時 : 12月11日(日)午前11時からは囲碁などのプレイベント。 コンサートは14時開演。
場所 : きゅりあん8階大ホール (東京・大井町駅前)
主催 : 心の唄実行委員会・品川区高次脳機能障害者と家族の会・暮らしと耐震協議会
演奏曲目 : 月の光(ピアノ)・いつも何度でも・遥かなる夢に・灰色の瞳・埴生の宿・この街で・ともだちはいいもんだ・世界に一つだけの花・プニャー二の様式による前奏曲とアレグロ(ヴァイオリン)・花束を君に・時の流れに~鳥になれ・とびっきりレインボーズのテーマ・心の唄・勇気100%・故郷・昴・Amazing Grace・道化師のソネットほか (※木谷さんはヴォーカルです。)

入場料 : 前売り券1000円。障がい者と小中学生は500円。当日券は1200円。
詳細→ http://kokorono-uta.net/kokorono-uta/index.html

木谷さんは元都庁職員で、現在は地元平塚市で2005年に設立された「平塚暮らしと耐震協議会」の理事長をされています。3か月前にはNHKにも出演され、いつも耐震と家具固定の大切さを訴えられていらっしゃる木谷さんは、防災は結局は地域の繋がりが近道であり大事なのだ、と話されていました。

2001年から施設を訪問してのギター弾き語りを始められてからは、新宿文化センター大ホールや九段会館などでのコンサートもこなされ、障害者や高齢者へ支援もされています。特に高次脳機能障害者支援に熱心で、私の『日々コウジ中』も、2年前のコンサート会場などで大きく紹介して下さいました。

お父様が故木谷實九段という家庭環境もあり、囲碁の普及活動をされたり、農業や森林保全や地元平塚の七夕祭りにも関わられたり、ネットが子供たちへ与える影響を考える「ネット社会と子どもたち協議会」を立ち上げられたり、「団塊サミット」でも活動されたり、2007年から始められたフルマラソン(この23日の、69歳の誕生日にも完走されたそうです)を続けてこられたり、とにかくものすごく精力的にご活躍されていらっしゃいますので、びっくりです。
上記の木谷さんのHP内の文章を、この週末コウジさんに読んで聞かせていましたが、盛り沢山過ぎて1日では読み切れないほどでした(けれどお忙しすぎて、2009年以降くらいからは書かれていないようです)。

この週末は、ワッチが1人で京都の友達の家へ1泊で行ったため、親の私まで行くまでの用意や帰ってからの片付けに追われていました。日曜日は京都は大雨だったので残念でしたが、土曜日は晴れて紅葉がきれいだったそうです。京都では友達だけでなく、友達のご両親にも大変お世話になってしまったそうで、有難いことです。ただ、ワッチはその仲のいい友達に、私やコウジさんのことを何にも話していないそうなので、そういうものかな、とちょっとがっかり。中学高校時代は、話していたのにな。今の娘の気持ちが、わからないなあ。そういう年頃なのかな。まあ、私もあまり気にしていませんが。

さて、パーキンソン病友の会の会報へ寄稿した文章は、昨日まで4回に分けて書いたもので全部ですが、そこにはさすがに差し障りがあるため書けなかったことがあります。それについて、明日書こうと思います。

・・・今、ウメはこたつで寝ていますので、今のうちに早く寝なくては。
なぜかというと、昨夜は私が寝るより前にウメが私の布団の真ん中に乗って寝てしまっていて、17キロあるウメを動かせなかったのです。動かそうとすると、「ウ~ッ」だの「ガウウッ」だの抵抗するので、それがおかしくて、私はケラケラ笑いながら、結局そのまま寝かせました。おかげで私は布団から半分体が出て寝る羽目になり、風邪を引きそうでしたし、無理な姿勢で寝たため、筋肉痛になって今朝起きたのです。そういうことが最近多いので、今夜こそは足を伸ばして寝たいです。

コウジさんもコウジさんで、毎晩布団の上に大猫ハルと、小猫チー(最近、段々大きくなってきた5か月です)を乗せてスヤスヤ寝ています。私も、ウメよりハルとチーの方がいいのですが(軽いから)、なぜかウメは私の布団を好むのです(外を散歩してばかりで、あまりお風呂に入れていないウメなので、私の布団の上に、またウメ用にふわふわのフリースの大きな毛布を敷いてあります)。

さ、早く早く、ウメより早く、今のうちに寝ます!おやすみなさい!



今日も寒かったですが、昨日はすごく寒かったです。結局予報通り、54年ぶりの降雪となった都心一帯。この冷たい雪の中、屋根のないところにいる多摩川の猫たちはどんなに寒い思いをして濡れ続けていることでしょう。子猫だと、体力がなくて衰弱し、命が消えてしまうのではないでしょうか(涙)。多摩川の全流域に、猫が雨宿りできる猫小屋をあちこちに置いてあげたい・・・。

朝のうちは雨だったので、会社へ行くコウジさんを駅まで車で送りました。その後雪の中をウメと散歩をし、お昼には12月1日に20歳になるワッチを祝うために、車で昼食に出かけ、帰ってからまたウメの散歩。散歩から戻ると、夜と翌朝の食料の買い出しにスーパーへ、雪がやんだ暗闇の中自転車で出かけ、なんやかやで悪天候の中、外にばかりいた1日で、もう私は疲れて夜は早々に寝てしまいました。

本当は、ワッチの二十歳のお祝いはコウジさんとワッチと私の3人でしたかったのですが、誕生日当日もその週末も、その前の週末(つまり明日あさって)も、ワッチは用事が入っているため、ワッチが「この日なら・・・」と指定していた昨日に、2人で簡単なお祝いをしたのでした。

実は、雪で外出が面倒になった私は、「こんな寒い雪の日に、わざわざ出かけなくてもいいんじゃない?誕生祝は12月中にすればさ~。」と言ったのですが、ワッチは「何のために、月曜日に出たレポートを必死に仕上げて翌日の火曜日に提出したと思う?今日は実験がなくなったので、大学へはレポート提出だけのために行くはずだったんだよ。でも今日フリーにして出かけられるようにするために頑張ったんだよ。なのに・・・」とつまらなそうにボソリと言うので、「わかった、わかった。」と出かけたのでした。 まあ、本当は渋谷にも出る予定だったのですが、雪だったのでそれはやめ、昼食だけのたった2時間のお出かけでしたけれど。
こうして二十歳になっても親と出かけたがるくらい、ワッチが素直な子に育ってくれたことを喜びましょう。

ところで、嬉しいことがありました。
コウジ村から、このたびめでたく就労が決まった人が出たのです。

その方は、20代の息子さんが当事者で、息子さんは中学生の時に交通事故に遭って高次脳機能障害を負ってからも、高校、大学と頑張って卒業。障害者枠の契約社員で1年半働いたものの、9月に更新とならず、就職活動中でした。

たまたま8月にあったコウジ村の集まりで、そこに参加していたほかのコウジ村の方と会い、その方が又たまたま障害者募集をしていた会社を紹介して下さり、ご本人の力と、ご両親の頑張りと、できたばかりの就労移行支援事業所の熱心なご支援によって、就労に結び付いたのでした。

勿論、ご本人のお人柄や持ち前の能力が就労成功のポイントではありますが、こうして実際にコウジ村がお役に立てたことで、コウジ村を始めてよかった~、と思いました。今までコウジ村に関係なく、入会(入村?)後就職が決まった方、復職された方も多いですが、コウジ村の存在が就労に具体的に関われたのは、初めてのことだと思います。多分。

Yさん、是非体調に留意しながら、無理のないペースで頑張って下さいね。会社と就労移行支援事業所の方々にも、どうかYさんのご支援を引き続き宜しくお願いします。この事業所の職員の方々は、私の多摩市講演にも、鶴ヶ島市講演にも聴きに来て下さったんですよ。すごく嬉しく、頼もしく感じました。有難うございました。

それではパーキンソン病友の会への寄稿文の、最後の部分です。

『父を亡くして思うこと』(4/4)

以上のことから、私が父の死までの経緯を通してわかったことで、周りに知らせたいことをまとめますと、

①有料老人ホームでは、パーキンソン患者は多くの認知症患者の中に紛れ、同じような食事介助を受けていると誤嚥性肺炎になる(こともある)。なので本人も家族も肺炎にならないよう十分気を付けた方がいい。

②有料老人ホームで医師不在の時間帯(ほとんどの時間)、急病になっても救急車ですぐ病院へ運ぶなどの適切な処置がなされるとは限らない。様子見をされて重篤化することもあるので、家族はホームから様子が普段と違うという連絡を受けた時は、慎重に迅速に判断、行動した方がいい(救急車を呼んで下さい、とホームに頼んだり、実際様子を見に行ったり)。良心的なホームは病気や怪我の連絡をすぐくれるが、そうでないと連絡さえくれないかもしれない。

③胃瘻手術は比較的簡単で安全と言われているが、手術後の傷が痛くて呼吸が浅くなり、痰を切れずに肺炎が悪化、亡くなることもある。だから手術後も安心せず様子をよく見ていたほうがいい。

④療養型病院に入院中、休日や主治医不在時に急変しても、主治医に当然連絡がいっているものと思ってはいけない。丸2日間連絡がいっていなくて、結局適切な治療をなんら受けることなく亡くなってしまうこともある。家族は、「主治医にちゃんと連絡いってますか?」と確認した方がいい。

もし連絡がいっていれば、主治医がそこにいなくても、何らかの処置を指示できたはずで、父の場合は「イノバン」という強心剤を使ったはずだったそうです(主治医談)。また、かりに助からなかった命だったとしても、最期の看取りは主治医にして頂きたかったという思いがあり、それが叶わず残念です。主治医不在の中、父は不安な気持ちで亡くなったのではないか、と思うからです。けれどこうして父の実例を広く知って頂き、ほかの方の症状悪化や落命を防ぐことに役立つことができたら、亡くなった父も家族も嬉しく思います。

ところで、父は亡くなる1か月ほど前から、痰がからむのか、声が聞き取りづらくなり、かすれて聞こえないことが増えました。父は何かを話したがり、懸命に話すのですが、わかりませんでした。元気になったらゆっくり聞くつもりでしたので、真剣に聞き取らないうちに亡くなってしまい、結局何を話したかったのかわからないことが大変残念です。

そんな時、最近ですが、「かながわ難病相談・支援センター」から送られてきた『パーキンソン病・脊髄小脳変性症・多系統委縮症に対する神経リハビリテーション』冊子の22ページに、「コミュニケーションエイド」という話が載っているのを読みました。その中で、「文字盤で、視線でコミュニケーションのやり取りをする」ものがある、とあります。もしこのようなものが安価で借りられるのでしたら、父に使ってもらいたかった、そうしたら父はどんなに喜び、私もどんなに嬉しかったことか、父が最後に話したかったこともわかったのに、と思いました。

父が話がうまくできなくなってから亡くなるまであっという間でしたので、ゆっくり調べたり探したりする時間がありませんでした。パソコンで調べたのですが、うまく見つけられなかったのです。ALS患者がそのような器具を使っているのは知っていましたが、どうやって入手できるのかわかりませんでしたし、多分入手できないと思っていました。このような道具があるということの周知が必要だと思います。

同じく、「あったら良かった」と思うものは、腰回りの太いズボンでした。腰が曲がってしまった父は、小柄なのにLサイズのズボンでも「きつい」と困っていました。父が「ああ楽だ。」と言ってくれるズボンはすごく大きなサイズとなり、裾を短くしなければなりませんでした。体型が大きく変化してしまった人が、楽に着られる服が開発されるといいと思います。そして普段着に何着も必要ですので、オーダーメードのような高価ではない方が助かります。

父は78歳という高齢で発症し、母は76歳でしたが、現在この母はアルツハイマーと診断されています。父を介護していた頃から、時々おかしいな、と思うことがありましたが、私は父のことにばかり気をとられ、母を病院へ連れて行くのが遅れました。この母との2人暮らしが、父を介護する面、父の病状を認識する面などで、少なからず影響したのでは、と思っています。

また父が4年間でパーキンソン病で使った薬は、メネシットとニュープロパッチとミラベックス(体がどんどん傾いてきたため、中止)の3種類だけでした。ほかの皆さんはもっと使われているのではないか、と不安でしたが、結局増えませんでした。医師に尋ねますと、「合わない時は薬を変えるけれど、そうでない場合は合っているということなので、このままでいい。」とのことでしたが、そういうものなのでしょうか。今の薬もいいけれど、さらにもっと合う薬に変えましょう、ということはないのでしょうか。
また父は目立ってウエアリング・オフというものがありませんでしたし、ジスキネジアというものもありませんでした。幻視や幻覚、物忘れなどは時々ありましたが、最後まで頭はしっかりしておりました。

父は残念ながら亡くなりましたが、今後もパーキンソン病の治療が進み、病院や施設で、そして願わくば住み慣れた自宅で、患者本人が納得し満足できる生活を最後まで送れる、患者とその家族の要望に耳を傾けてくれる世の中になることを心から願っています。
私もできることなら、父のそばで父を介護したかった、という思いがあります。父も亡くなるなら、自宅を望んだでしょう(まだ自分でも亡くなるとは思っていなかったのですが)。父の進行がこんなに早くなければ、いずれは自宅(バリアフリーにした実家)で、訪問医療をお願いしたいと思っていました。それらが皆叶わず、ただただ残念で、写真の父に話しかけている毎日です。

最後になりましたが、貴会の益々の発展をお祈り致します。(終わり)


今日の世田谷は暖かかった昨日とは打って変わり、朝から気温も低い曇りの日で、夕方にはパラパラ小雨が降り出だしてきました。これから明日にかけては、もしかしたら雪になるかもという予報です。もし都心に11月に雪が降ったとしたら、54年ぶりだそうです。私も生まれていないワ・・・ 
昨年は登場の機会がなかった、雪かきスコップを出さなくちゃ。どこへ仕舞ったかな?

そんな寒い寒い午前中、外からは子供たちの賑やかな声が聞こえてきました。
今日は1年に1回ある、近所の餅つき大会なのです。ワッチも小さな頃は参加して、餅つき係の大人に支えられながらお餅をつかせてもらいました。つきたてのお餅は、やはりおいしいですよね。

コウジさんもこの1週間くらい、「23日は餅つき大会だ!」とずっと楽しみにしていて(食べるだけですが)、今朝5時頃ふと目覚めた時も、「今日はお餅つきだ。」とつぶやいて、また寝てしまいました。どれだけ楽しみにしているんだか・・・(笑)。

10時半から開始なのに(お餅の販売も)、10時頃から「じゃ、行ってくる!」と我が家から徒歩1分くらいにある会場へ出かけようとするので、ワッチから「やめてよ!恥ずかしい。小さな子供が待っているなら、「ああ、子どもだからね。」と思われるけど、大の大人が「早く、早く。」と待っているなんて。」とたしなめられ、口を尖らすコウジさん。どっちが大人だかわかりません。

10時半になって家を飛び出していったコウジさんは、黄な粉、胡麻、あんこの3つのおもちが入ったパック(1パック300円)を6つ買ってきて、今日は朝からお餅ばかり食べている我が家です。さすがに食べ切れないので、明日もレンジでチンしたお餅だ。

けれど、地域でこうした催しがあるって、いいことですね。お互いが顔見知りになれるし、地域も活気づくし。
このあたりは、大きなお祭りが1年に何度かあります。新年の新春まつり、夏の納涼まつり(盆踊り含む)、神社のお祭りなど。
都心とはいえ、割と近所づきあいも密で、家の前の道路で立ち話は日常茶飯事、ベランダ越しにもよく話しますし、竹の子ご飯を作ったから、とおすそ分けを頂いたり、どこかへ出かけたお土産など、食べ物のやりとりは多いです。

コウジさんとは、あれこれ失敗の多い生活でしたけれど、住まいにここを選んだことは、大成功だったね、とよく言い合います。近所の人たちは優しい人たちばかりで、病院も山ほどあって安心ですし、複数の路線の駅まで徒歩で行ける便利さ。車は不要だ、と手放す人も多いです。我が家の場合は、大雨の時にコウジさんやワッチを駅まで車で乗せたり、何より犬猫が病気になったら車で病院へ連れて行くので、やはり手放せませんが。

今日は休日(祝日)だったので、久しぶりにゆったりできました。でも、その人間の様子を見てか、散歩を催促するウメに3回も連れ出されて少しぐったり(うち2回はコウジさん。コウジさんはさっさと帰ってくるので、3回目は私に催促に来たウメ。私はウメのペースに合わせて歩くので、時間はかかりますが、まあ、元気に散歩できるうちは、なるべく散歩に行ってあげたいです)。

夕方からはアマゾンで注文した飯田基晴監督の『あしがらさん』を、コウジさんと見ました。路上生活者であったあしがらさんが、監督や周りとの温かいふれあいによって、普通の人(何をもって普通と定義するか、は人によりますが)になっていく経緯が感動的で、見ていて心がほっこりしました。でも、ホームレスさんについて、私はまだまだ無知です。

それから、多摩川流域の猫やホームレスさんのお世話をされている写真家の小西さんが、ご自身のHPに昨日、この私のブログをリンク先に貼って下さいました!嬉しいです!
小西さんのブログやHPを訪れる方たちのほとんどは、高次脳機能障害についてご存知ないか、関係ない方だと思われますが、そういう方たちにこそ、この障害を知って頂きたいですね。なぜなら、そうしたらこの障害のことを知っている人が増えるからです。(小西さんも、そう仰ってくれています。)

小西さん、有難うございました。やはり、猫やホームレスさんのお世話をされている小西さんは、障害者にも心を向けて下さるとても優しい方なんだなあ、と思います。
皆さんも是非小西さんのブログを読まれて、多摩川流域の猫やホームレスさんたちのことに心を馳せられたり、TAMA猫基金にご支援下さったり、TAMA猫Shopで来年のカレンダーを買われたり(多摩川猫の救済基金になります)、宜しくお願いします。 
→ http://www.top-virtual.com/kabuto/diarypro/  (小西さんのブログの右上の「BACK」をクリックすると、HPが読めます。)

それでは、パーキンソン病友の会へ寄稿した文の続きです。

『父を亡くして思うこと』(3/4)

父は急性期病院に入院したものの、口から食べることができないと判断されて、私が不在時に経鼻栄養となっていました。私としては、もっと嚥下リハビリを施してもらえないものか不満がありましたが、担当医は「言語聴覚士がそう判断したのだから。」、と熱心にリハビリをしてくれるようには見えませんでした。
その頃の父は、「口から食べたい」、と毎日言って医師にも訴えましたが、医師からは、「伊藤さん、伊藤さんはもう食べられないんですよ!」と大声で言われ(怒鳴られ、といった方がいいかもしれません。)、ショックを受け黙り込んだ父の顔を忘れることができません。救急病院の医師は忙しく仕方ないと思いますが、もう少し優しい言葉を本人が納得するようにかけられないものか、と悲しくなりました。
父は、とにかく口から食べたがっていました。自分が食べたいものを私にメモさせ、それをまだ入所中になっているホームが作ってくれたら、自分は食べられると思う、と言いました。そしてもしそれでも食べられないのだとしたら、もう自分は死ぬよ、と真顔で私を見つめて言いますので、縁起でもない、と思ったのを覚えています。

けれど結局父は9月22日の入院から12月23日に亡くなるまで、何か食べさせてもらえることはありませんでした。どうせ亡くなってしまうなら、むせてもいいから、肺炎になってもいいから、入院中に1度でも何か好きなものを食べさせたかったという思いがあります。間違った思いなのかもしれませんが。人はやはり自分の口で食べられることこそが幸せなのだ、と父から教わった気がします。

父が経口栄養を望む以上、それをかなえる唯一の道は胃瘻でした。「胃瘻で体力が回復したら、リハビリしていつかは経口と胃瘻と併用できたらいいね。」、そう父も私も思うようになりました。しかし入院中の急性期病院では胃瘻はしないという方針でしたし(体力が持たないだろうとのこと。けれど経鼻のままもリスクがあるし、経鼻をはずしたら老衰死を迎える、と言われていました。つまり、悲観的な道しか示唆されていませんでした。)、肺炎の治療は終わったので早く退院してほしいと言われていて、療養型病院に移りました。
そこで主治医となった外科の先生に、父がこの肺の状態で転院してきたことに驚かれましたが、父の気力と頑張りでなんと回復してきて、胃瘻手術を受けるまでになったのです。主治医は、「お父さんの気力のおかげです。」と喜んで下さいました。私もここに転院してきて良かった、と喜びました。そして胃瘻造設手術の日は、12月9日と決まりました。

転院後も何回か肺炎を起こしながら、それらを気力で全てクリアしてきた父は、胃瘻手術を心待ちにしていました。その先にある、口から再び食事を取ること、を楽しみにしていたのです。
そして手術も成功、経過も順調とのことで私は安心しました。ただ父だけは、「経過順調よ。」と私が言っても、「そうかなあ?」と首をかしげておりました。実は父自身は、抜糸前の傷が痛いそうでした。とはいえ手術後2週間近くたった21日に主治医と面談した時も、これから離床を進めリハビリしていきましょう、と前向きな話でしたし、父も主治医に「頑張っていきましょうね。」と言われ、笑顔で頷いていたのです。ところが・・・

翌22日に発熱、痰がすごく出て、23日(祝日)には血圧が低くなりました。安心して自宅で用事をしていた私は、夕方病院からの連絡で驚き駆けつけました。すると血圧も戻り安定したので、東京の自宅に残してきた家族が心配で帰宅しました。実は私の夫は脳卒中の後遺症で、高次脳機能障害者なのです。
帰る前に看護師さんから、翌24日の午前に主治医との面談予約が入れられ、なぜ血圧が低くなったのか尋ねるよう言われました。つまり翌日午前まで父は亡くならない、という看護師さんの見立てだったのです。私も血圧が低くなることは危険なことだ、という認識がなく、帰宅してしまいました。

しかし帰宅して1時間、父の脈がなくなってきた、危ない、という電話が又その看護師さんから入ったので、何が何だかわからないまま東京の自宅から横浜の病院まで、雨の夜中タクシーで飛んでいきましたが、最期に間に合わなかったのです。まだ温かい父の顔を触り信じられない思いで、「胃瘻もして、これからじゃない!死んじゃダメだよ!」と私がいくら叫んでも、父は目を開けてくれませんでした。私は悪夢ではないか?とただ呆然とするだけでした。ただ、病院は実家からすぐでしたので、母が間に合ったことだけがせめてもの救いでした。母が「私が来るまで待っててくれたの?」と尋ねますと、父は頷いたそうですから、それは本当に良かったです。
今も父の死を家族は納得できていませんが、一番無念だったのは、回復を信じて胃瘻手術まで受け、前だけを見つめていた父ではないでしょうか。父のことを考えますと、すぐ心乱れ息苦しくなりますが、父の、最後まで諦めない毅然とした生き方を尊敬し、その姿勢をしっかり受け継いでいこうと思っております。

さて、父の死後わかったことですが、父の急変した22日と23日に主治医が不在で、看護師さんたちから父の急変についての連絡もいっていなかったとのことでした。父が亡くなるほど悪いと判断されなかったからのようですが、もし連絡がいって主治医から治療を受けていたなら、父は今も生きていたのでは、という思いに今も苦しんでいます。あるいは、父が亡くなったのは運悪く祭日でしたが、宿直医が皮膚科の先生でなくて内科か外科の先生でしたら、なにか手立てをしてくれたのではとも思います。これも療養型病院の限界とのことで、そこを選んだ私の責任だと思うと、父に申し訳ない思いでいっぱいですが、主治医の先生はよくやってくれましたし、もう運が悪かった、と思うしかありません。
ああすればよかったのでは、こうすればよかったのでは、ということばかりをずっと考えている中で、最後は「でも仕方なかった、これが最善であった。」、と自分に言い聞かせるように最近はしています。そうでもしないと、いつまでたっても苦しくて仕方ないのです。(4/4に続く)

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