日々コウジ中

日々コウジ中 - クモ膜下出血により、さまざまな脳の機能不全を抱える“高次脳機能障害”になったコウジさんを支える家族の泣き笑いの日々

2018年05月

1月の梅から始まり、春のパンジー、すみれ、オオイヌノフグリ、タンポポ、桜、キモッコウ、藤、今はヒメシャラ、ツツジ、アジサイ、ツユクサ、クチナシ、タイサンボク、バラ、アヤメ、ランタナ、南天、タチアオイ、ドクダミ、ユリ、ビワ、ゼラニウム・・・ (私が名前を知っている花だけ列挙していますが)、次々花が咲いていますね。

なんだか先週は夫コウジさんの病院付添やら、母の病院付添やら色々用事が多く、ブログを書く時間が全然取れませんでした。でもウメの散歩はかかさずしているので、散歩中見かける花を列挙したのです。
犬を飼っていると、散歩で歩くので健康にいいし、季節の移り変わりもよくわかるし、色々な人と会って話すし、いいことばかりです。 

先月の新潟の珠生ちゃんにしても、去年の3月の千葉のリンちゃんにしても、子ども、とくに女の子が誘拐され殺されるという悲しい凶悪事件が後を絶ちません。下校時間にパトロールする人たちの年齢が高齢化し、監視しきれない、という話も聞きました。

私の住む地域では、子どもが小学生の時は、保護者が持ち回りで2人組になり、色々な場所を年中パトロールしています。仕事をしている保護者も多いので、パトロールする時間を2人で相談・調整し、肩にたすきをかけ、腕に腕章を巻き、危険なチェックポイントが明記されている地図を片手に回ります。不審者がいないか、子供らがどこで遊んでいるかなど厳しくチェックし、それ以外は自由に歩きました。決まったコースを歩くより、パトロールの効果が高いと思います。
そしてパトロールが終わるとノートにパトロールしたルートを書き、コメントを書いて次の保護者に渡しました。

そのせいか、私がここに住んでもう20年になりますが、事件や不審者情報など聞きません。

でも私は、地域のパトロールには犬の散歩も役立つと思うのです。
犬を散歩している人はとても多く、皆思い思いの時間やルートで歩いています。
私も色々なルートで歩いていますが、そういう時に挙動の変な人、いつも見かけないような人がいればすぐ気づきます。犬を散歩する人に地域の見守りをボランテイアで協力してもらい、協力者にはワッペンでもつけてもらうと、監視効果があるのではないでしょうか。

また、不審者や危ない場所へ目を光らせるだけでなく、1人暮らしの高齢者の見守りにも、犬の散歩は役立つと思います。私はウメと散歩していると、よく高齢者に話しかけられます。犬がいると、話しやすいのかもしれません。「かわいいわね。」から始まり、世間話が長くなることもあります。時には、自分が1人暮らしだということも話してくる方もいるので、そういう時は心配になります。強盗などたくらんでいる人に、そんな不用意なことを話してしまったら大変ですからね。
なので、いつもそういうおばあさんのことを気にして散歩していましたが、あるおばあさんは息子さんの家に移られ、家も取り壊されました。寂しかったけれど、ほっとする気持ちの方が大きかったです。
ただ、ほかにもそういうおばあさんたちがいらっしゃるので(佐野洋子さんの『だってだってのおばあさん』のあとがきのように、この世の中1人暮らしのおばあさんだらけですね)、そういうおばあさんの家の前を通る時は、つい何か変わった様子がないか、ジロジロ見てしまいます。

と、「わんわんパトロール」というものが各地にあるのを思い出しました。上記のような趣旨のボランテイア活動のようですが、私の住むところにはありません。思い切って提言してみようかな。

さっきNHK「プロフェッショナル」で、絵本作家かこさとしさんを1か月追った番組を見ていました。勿論録画もしました。5月2日に92歳で亡くなられる21日前までの、大変貴重な記録でした。NHKさん、有難うございます!

かこさんがインタビューや編集者との打ち合わせ途中で息が苦しくなったり、お尻が痛くなったり、15分休憩後再開されていたりする姿を見て、驚きました。こんなに体調が万全でない状態(というより悪い状態)でも、新しいアイデアを出され、絵を描き続けようとされていたその姿勢には、胸打たれました。

かこさんの話は、また書きます。
ではまた。

秀樹さんが急に亡くなられたのは、秀樹さん自身が望まれたこととはいえ、リハビリがあまりもハードだったせいではないか、という気が日増しに強くなっている私は、コウジさんに対する見方にもそのことが影響し始めています。

太り過ぎてきた感のあるコウジさんに、健康的に痩せてもらうために近所のプールへ行ってもらうことにしたのですが、15分であがってしまったのは、5月4日のブログに書きました。その1週間後にもプールへ送りましたが、今度は30分であがってきました。なんでも休憩時間にかかってしまったので、待つのが面倒だったからとのこと。本人は、もう少し泳ぎたかったとのこと。ホントかな。

それで翌週またプールに送ろうとしましたが、「嫌だ。今日は眠い。」と拒否され、その後何度か声掛けしますが、悉く拒否され現在に至っています。そんな頃に秀樹さんが亡くなられ、あの壮絶なリハビリ映像をテレビで改めて見、コウジさん本人が気乗りしないなら、無理に泳いでもらってなにかあると大変、と思い出しました。
それで、本人が乗り気になってしかも元気いっぱいの時でなければ、無理にプールへ送ることもやめました。

でもコウジさんのビア樽のようなお腹、なんとかしないといけないと思うので、少し食べる量を減らさせていこうと思います。食べるのが楽しみの彼なので、少しずつですが。

また、脳のリハビリにもいいと思って囲碁を始めてもらいましたが、コウジさんはやっぱり面倒なようです。「詰碁やろう。」と誘っても、大体は「嫌だ。」という返事。「囲碁の本読んだら?」と入門書を渡しても、数秒見るだけで面倒臭がります。どうしたらいいの~?

一方私は、時間を見つけては、クイズのようで面白い詰碁を解いていて、囲碁教室へも行っています。時々用事で休みますが。今、14級になったので、「なんだ、絶対私は上達しないという先入観があったけれど、もしかしたら頑張れば上達するのでは?」という気がしてきました。この1年、「どうも自分に囲碁は向いていない」、「とても難しい」、「でも面白い」、とのんびり続けてきていた私は、それでもずっとこのまま超初心者のままだろう、といつの間にか思い込むようになっていました。そしてそれも私らしくていいか、とそれを肯定する向きさえありました。

ところが、超初心者教室から20級以上の方のいる大教室(段位者もいるそう)へ今月から移され、対局させられるうちに、14級になり、びっくりしているのは私本人です。「え、まさか」、「え、本当?」と。
たしかに1か月くらい前から、霧が晴れるように頭がちょっと冴えてきて、囲碁ってもしかしたら簡単?(なわけないのだけど)という気すらし始めました。勿論先を考えたら気が遠くなるほど長い道のりながら、一瞬でもそういう軽い気持ちが自分に訪れたことに驚き、感動すらしました。それで、自分で故意に乗せていたのかもしれない重しを頭の上から下ろして、新しい素直な気持ちで碁盤に向かい出しました(大体がパソコン画面上の碁盤ですが)。

14級を頂くと、俄然欲が出てきました。このままシングル級になり、いつかは初段になろう、と。
もちろん、初段になれたなら、二段、三段・・・となりたいですけど、まだまだそれは先の話として、とにかく自分でも苦手だと思っていたことに向き合って努力すれば、向上していくかもしれない、という思いをくれた囲碁って有難い存在です。

この先さらに上達していくかいかないかはさておき、元々はコウジさんの障害症状改善を期して始めた囲碁。コウジさんが囲碁に熱中する私をいいことに、益々テレビを見る時間が増えて益々ボケてきては本末転倒です。実際その傾向があり、テレビに暴言を吐くコウジさんも最近暴言が絶好調。怒った私にテレビを消されることも増えてきました。これはまずい。

でもコウジさんに囲碁の本やネットの詰碁をやってもらうのが難しく、買ってきた囲碁ソフトも私が忙しくてそばについていないとやらないので、囲碁教室に通ってもらおうかとも思いますが、出かけて行くのは彼には疲れるしお金が私と合わせて2倍になるので非現実的、というか無理。
ではお金はかかっても、囲碁の先生に自宅に来てもらうことも検討しましたが、こちらも犬猫飛び交う狭い我が家では無理。
やっぱり私がコウジさんの囲碁の先生になることが、一番手っ取り早く一番現実的ではありませんか!
ということは、やっぱり私がコウジさんより先に囲碁が上達することがいいのです。
この結論に到達したのが昨日のこと、そうとわかれば、私は急いで上達してコウジさんに教えないと、コウジさんや私の寿命が先にきちゃうのです。
・・・こうして書きながら頭の整理をしている面もあり、このブログはまさに私の日々考えていることの記述です。

囲碁はそれでいくとして、ほかに彼の脳のためになることはなんでしょうか。やはり料理っていいんじゃないかしら。

コウジさんは障害者枠で勤務開始するまでは、回復期病院のリハビリで調理がプログラムとしてありましたから、家でも病院で作業療法士さんに習った料理をしてくれました。でも勤務が始まると、もう通勤と勤務だけでぐったりで、料理なんてとてもできなくなりました。ということで、かれこれ12年料理していません。

たまたま昨日、知人が最寄駅を通ることを知り、彼女に渡したいものを改札越しに渡しに行くことにしました。ちょうど夕食前の時間帯だったため、私が家を出て帰ってくるまでの30分、夜ご飯の手伝いをコウジさんにしてもらおうと思いついた私。

テレビを見ているコウジさんに、「今夜は大根とホタテのサラダを作るから、大根をこのくらい使って(大根を見せながら)、千切りしておいてくれる?」と声をかけてみると、コウジさんはテレビに飽きていたのでしょう、そしてそのくらいできると思ったのでしょう、嬉しそうに「お!いいよ!」と乗り気になりました。 
ついでに、「玉ねぎのお味噌汁も作りたいので、玉ねぎも切って、このお鍋に入れて煮ておいてくれる?」と言うと、「お!いいよ!玉ねぎはこれだね!」と目に付くところにあった玉ねぎを1個手に取りました。いい感じ!

「玉ねぎは何個?2個?」と言うので、「それは多すぎるから、1個でいいよ。もうお鍋にお水も入れておくし、あごだしも入れておくね。」と私。そうしないと、コウジさんはきっと大量のお水を入れ、大量のお味噌汁ができてしまうからです。
「玉ねぎのほかに、じゃがいもでも入れる?」とさらにコウジさん。やる気満々、いい感じ!
「じゃがいもは柔らかくなる時間が玉ねぎと違うから、今日は時間ないからいい。あとでわかめ入れて玉ねぎとわかめのお味噌汁にするからいい。」と答えると、「わかった!」と明るい返事。
「じゃあ、お願いね、30分で帰ってくるから。」「おう!」

よし、と、私は急いで家を出ました。 ・・・けれど、やっぱりメモに書いて渡すべきだった、と思ったのは、帰ってきたからでした。

帰ってくると、目を疑う光景が。
私が用意したサラダ用の大きなお皿に、それにも入りきらないほどの大根の「太切り」の山が。千切りではなく、太切りです。こんな1本が太い大根のサラダ、馬でも食べるの?1本噛んだだけで顎が疲れるよ。というか、食べられないよ。それも私が頼んだ量よりずっと多い大根を使っていました。
しかもその大根の山盛りの上に、なぜか水で戻した大量のわかめの山が。
これは何?なにか芸術のオブジェ?のけぞる私に、「わかめ、水で戻しといたぞ!」と大威張りのコウジさん。

「大根サラダにわかめなんて入れないよ。ホタテの貝柱を入れてマヨネーズとコショウであえて食べるんじゃん!いつもそうしているじゃん!わかめはお味噌汁に入れるんだよ。乾燥わかめは水に戻さないで、お味噌汁にはそのまま最後に入れていいんだよ!」とくらくらしながら、お味噌汁用のお鍋を覗くと、そこはあごだしのパックが静かに水の中に沈んだままでした。

「あれ!お味噌汁は?玉ねぎ切って煮ておいて、って頼んだじゃん!」と段々語気が荒くなる私に、「あ、玉ねぎすっかり忘れていた。これは僕の凡ミス!」
凡ミスって・・・
「もう、玉ねぎ煮る時間、この太い大根を細く切り直す時間、合わせて今から30分はかかるから!」とキ~!となった私に、コウジさんも逆ギレして、「オレに料理を頼むな!」ときました。

さすがに疲労感に襲われた私は、いったん椅子に座って息を整え、それからおもむろに立ち上がって、大根を細く切り直し始めました。けれど一旦太く切った大根を細く切るのが、こんなに面倒とは!

(メモに書くべきだった。)(こんなに料理センスがないとは。食べている時、食材の太さや大きさに目がいかないのか。)と嘆息しながら、サラダとお味噌汁をお魚と一緒にテーブルに並べました。
ところでこのお魚は、とても便利なんですよ。囲碁ボランテイアの方から教えて頂いた、明石の「魚秀」さんというところの魚で、炭火焼された鯛や紅鮭、すずきなどが真空パックされていて、熱湯なら5分、レンジでも簡単においしい炭火焼の魚が食べられるので、重宝して取り寄せています(ちょっと高めですが、すごく美味しいし、何より忙しい時に簡単で大助かりなのです)。

なんとか整った夜ご飯のテーブルにワッチと3人で席に着き、気を取り直して楽しく食べました。
ワッチも事の成り行きをそばでレポート書きながら聞いていたので、いつものことながら父親を「なにやってんだか。」と冷やかしながら食べました。コウジさんは自分の切った太い大根と、私が切った細い大根を食べ比べながら、「本当だ、全然違う!」と驚いていました。料理は切り方も勝負ですね。余った太切りの大根を、コウジさんは勿体ないから、と全部食べて、「へえ、大根ってこんな味なんだ。」「辛いなあ。」と言っていました。
お味噌汁には多すぎる、水で戻した大量のわかめも、コウジさんはどんぶりでパクパク食べていました。

「私が突然死んだら、こんなに料理ができないと困るから、これから一緒に毎週末は料理覚えようね。」と私が言うと、「ママちゃ~ん。死ぬなよ~。」と泣きべそをかくコウジさん。

ということで、今日は話題があちこちに飛びましたが、コウジさんのリハビリにはプールや囲碁より先に料理をしてもらおうと思います。勿論囲碁もちょっとはしますが、私が教えられるほど上達するまでは、ちょっとちょっとですね。そんなにコウジさんも色々すると、疲れてしまいますからね。

今日は秀樹さんの告別式が、11時からでしたね。

実は私は昨晩も今朝も、「やっぱり行きたいな。行こうかな。」と悩んでいました。
朝はネットで昨日のお通夜の様子を読み、コウジさんにも読んで聞かせ、泣いていました。

でも、今日は囲碁教室がありましたので、涙を拭いてやはりそちらへ行くことにしました。

なぜなら、先週から対局が始まったので、私の対局者を、今日もきっと先生方で選んで下さっていると思ったからです。秀樹もリハビリを頑張ったように、私も今日は囲碁を頑張ってこようと思いました。

囲碁教室では時計が気になり、11時になった時、(今頃秀樹の告別式が始まったな。)と思いました。
窓ガラスの外に目をやり、(雨も降らず、良かったな。)と思いました。

対局は、勝ちました。昇級したので、(来て良かった!)と思いました。

建物の外に出て空を見上げると、薄曇りでした。(秀樹さんの曲、「ブルースカイブルー」の歌詞のように、告別式は青空じゃなかったんだな。)と思いました。

秀樹さんを追悼する番組では、「ヤングマン」ばかり出てきますが、私は「ヤングマン」や「ギャランドゥ」などよりも、「ラストシーン」「ブルースカイブルー」「遥かなる恋人へ」などのバラード調の曲の方が好きです。
いえ、秀樹さんが歌う歌ならなんでも好きですけれど、特に「ラストシーン」と「ブルースカイブルー」は大好きな2曲です。

帰宅してテレビで告別式の様子が映りましたが、大勢のファン(1万人とのこと)が行かれて下さったようで有難く、安心しました。私も本当だったらあの中にいたかったので、いたことにしました。

私が1日中秀樹さんの話をコウジさんにし、「ああしたら亡くならなかったのでは。」「こうしたら良かったのでは。」など、諦めきれずにくどくど言うからでしょうか、コウジさんが「僕が病気になった時、こんなに心配しなかったんじゃないの?」と怒ったように言ったので驚きました。

「あなたが倒れた時だって、一所懸命調べたり考えたりしたわよ。」と言うと、「そう?」とほっとした顔をしていましたけど、あの頃の嵐のような日々は、もう思い出すのさえも勘弁、というくらい大変なものでしたよ。

それにしても、秀樹さんは、2回目の脳梗塞後すぐの頃よりも、最近の方が調子が悪そうに、亡くなられた後色々な画像を拝見していて思いました。

私が秀樹さんをまぢか(4、5メートル)で拝見した2012年9月30日の秀樹さんの講演会では、秀樹さんは2回目の脳梗塞後でしたが、今よりお元気そうに見えました。なにかほかにご病気をお持ちだったのでしょうか・・・。

まだまだ秀樹さんが亡くなられたショックから立ち直れそうにありませんが、とりあえずは来月届く秀樹さんのCDとDVDセットを楽しみに待っているところです。

思い立つとすぐ行動に移すいつもの私なら、今日の夕方6時から青山葬儀所で営まれる、西城秀樹さんのお通夜へ行くところです。実際、今朝も地図や時間を調べながら、悩んでいました。
私は、よく著名人の告別式の会場となる青山葬儀所へは行ったことがありませんし、今後も行くことはないと思います。もし一生に一回でも、そこへ行くことがあるとしたら、西城秀樹さんのお通夜か告別式しかありません。
明日の告別式の日には用事が入っているので、行くなら今日のお通夜でした。

・・・でもやはり、家でお祈りすることにしました。
ウメの散歩もありますし、6時半にはコウジさんが会社から帰ってきますし、そのほかの用事をやりくりすることが無理だと判断しました。行きたかったけれど・・・(涙)。
それほど、私は秀樹さんが好きでした。

昨夜のこと、いつもテレビを見ているコウジさんが、「あ!このあと秀樹の番組だって!」と叫んだのが夜9時前でした。コウジさんも、秀樹ファンです。あれこれ用事をしていた私は驚いてテレビの前へ行くと、すぐ録画予約をし、後で手が空いたときにコウジさんと見ようと思いました。
けれど、録画もしながら、結局全部見ました。奥様やお子さんが出られた、貴重な番組だったからです。

こんなに素晴らしいご家庭を持たれていたなんて、知りませんでした。秀樹さんは幸せだったなあ、と嬉しくなりました。と同時に、死ぬなんてきっとこれっぽっちも考えずに、毎日ひたすら前を向いてリハビリに励んでいらした画面の秀樹さんを見ると、自分もいつ死んでもおかしくない、と思いました。

そこで、お通夜に行けない代わりに、今日は急虚エンデイングノートをを書くことにしました。もちろん今日1日で終わるわけはありませんが、秀樹さんのお通夜の日に書き始めることに意味があるのです。

もし私が明日にでも突然死したなら、コウジさんはもちろんのこと、娘のワッチもわからないことだらけで困ることになります。コウジさんは記憶障害もあれば判断力も低下していますから、若く健康なワッチに向けてのエンデイングノートになります。
まずは銀行の通帳や保険証券などを集めてきましたら、雑然とあちこちに仕舞われていますし、ほこりもかぶっていますし、なんと書きかけのエンデイングノートも出てきました。日付が去年の4月ですから、1年以上中断したまま放置されていたのです。 

また中断、放置しないよう今回は最後まで仕上げるつもりです。

滅多に週刊誌を買わない私ですが、買うとしたら秀樹さんに関する記事が掲載された時です。
ということで、昨日『週刊新潮』(5月31日号)を買ってきました。
読んでいると、秀樹さんにはもしかしたら心臓に持病があった可能性があり、「・・・リハビリで負担が蓄積し、急性心不全が起きた可能性も考えられます。」と、くどうちあき脳神経外科クリニック院長が言われていました。
私もそんな気がしていました。

でも、家族のため、ファンのため、そして自分のために一所懸命真面目にリハビリに取り組んでいらした秀樹さんですから、それを止めるのも難しかったかもしれません。ただ、もし、秀樹さんのリハビリ映像(今まで何度かテレビで拝見したことがあります)に、「これは危険かも。」と思われた医師がいて、もう少し無理のない程度のリハビリにしましょう等の的確なアドバイスがあったなら、そして秀樹さんがそれに同意されていたなら、もしかしたら秀樹さんは急逝されることはなかったのではないか、とこれはファンとして、どうしても、すごく、思ってしまうことです・・・。秀樹さんは、東京オリンピックで歌うことを夢見て、頑張っていらしたそうです。あと2年だったのに・・・。

エンデイングノートを作りながら、リビングに飾ってある2年前に亡くなった父の写真を見たり、秀樹さんの懸命なリハビリ姿を思い出すと、思わず涙が出てきました。

人間は生まれてきても、たかだか80年ほどで(秀樹さんは63年で)この世を去るのに、なぜ皆せっせと働き、あえて苦しいことにも立ち向かっていくのだろう、気楽にきままにのんびり過ごした方が楽なのに・・・ と思いました。時々そう思います。ウメと散歩していて最近よく見かける、アリの巣の周りを慌ただしく行ったり来たりしているアリの光景が頭に浮かびました。人間は、アリのようだよ、と。

でも、脳梗塞になったからといって引退をせず、あんなに歯を食いしばって必死に歩いたり筋肉トレーニングをしていた秀樹さん。ステージに足をひきずって現れ、動く手だけで振りをつけながら歌う秀樹さんの姿に、その答えがあると思い、胸が熱くなります。

命ある限り、前を向いて、他者のために歩いて行く努力をする、それが自分が生きるということであるのだな、と。

秀樹さんは、本当に素晴らしい人でした。
歌がすごくうまくて、すごくカッコイイだけでなく、人間として、すごい人だったと。

父も秀樹さんもいなくなり、私も早くあっちの世界へ行きたくなりますが、もう少し自分がやるべきことをしてから行けたら、と思います。・・・今日のところは、まずエンデイングノート作りですが。

あと15分で、秀樹さんのお通夜が始まります。
きっと、大勢の方が参列されることでしょう。
私の思いも、ここから届きますように・・・。

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五井美沙さん個展



宮城県石巻市に、「アニマルクラブ石巻」さんというNPOがあります。 http://a-c.sub.jp/
飼い主のいない犬猫を保護して里親を探したり、避妊・予防センターを併設して良心的な獣医師の協力のもと、避妊去勢手術を始め、治療全般も引き受けています。

私が「アニマルクラブ石巻」さんを知ったのは、宍戸大裕監督の映画『犬と猫と人間と 2 動物たちの大震災』を見たからです。その映画の中では、「アニマルクラブ石巻」さんのほか、福島の「SORA アニマルシェルター」も取材されていました。 2013年8月4日、私は娘ワッチを連れて、「SORA」さんへ1日ボランティアへ行きました(その様子は、同年8月7日からのブログに書きました)。
「SORA」さんのHPは、http://sora.ne.jp/ です。

「アニマルクラブ石巻」さんへは、2015年9月17日の仙台講演の翌日、石巻まで足を延ばして見学に行きました。(この様子も、2015年11月20日、27日、28日などに書いています。)
あの大震災の日、石巻も津波に襲われました。被害者数3千人を越え、1つの自治体としては最大の被害と言われています。「アニマルクラブ石巻」さんでは、スタッフの女性1人と、犬2匹猫1匹が犠牲になりました。

その女性とは、五井美沙さんといい、本来の自分の仕事が引けてから週3回、2~3時間ずつ「アニマルクラブ石巻」さんでボランテイアとして働かれていました。美沙さんは実は絵が大変上手で、いつかは東京へ出て絵画やデザインの勉強をしたい、という夢をお持ちだった29歳でした。

地震が起きた時、美沙さんは会社を飛び出し「アニマルクラブ石巻」へ犬猫を助けに向かったそうです。けれどこれは推測だそうですが、あまりにも表の様子がひどかったので、寝たきりの祖母と足が不自由な母親が心配になり、沿岸地域にある自宅へ向かったのだろうとのこと。 3人は家ごと流され、美沙さんは49日目に、自宅から離れた浜辺に打ち寄せられて見つかったそうです。

奇しくもその日、「アニマルクラブ石巻」の阿部代表は、美沙さんの沢山ある絵を多賀城市に運んでいました。数日後にそこで美沙さんの個展を開こうと思っていたのです。そのおかげで、美沙さんの絵は津波に流されることなく残りました。

阿部さんは、フジコ・ヘミングさんの助けを借りて、美沙さんの画集を作りました。
それが今日の写真の1枚目の左側です。右側は、阿部さんのご著書『動物たちの3・11』です。

そしてこのたび、美沙さんの個展が世田谷でも催されることになりましたので、そのお知らせです(写真2枚目)。 個展開催は、コルゲンコーワのケロちゃんの作者である、久世アキコさんのご尽力によるそうです。久世さんも、「アニマルクラブ石巻」にいた猫の、里親さんなのだそうです。

【五井美沙作品展&アニマルクラブ石巻の仲間たち】
日時 : 2018年8月3日(金)~19日(日)12~19時。 ただし、月・木は休み。最終日は17時まで。
場所 : ギャラリー来舎(きや)「梅猫庵」 世田谷区梅丘1-44-10
      小田急線「梅ヶ丘駅」から徒歩2分、世田谷線「山下駅」から徒歩7分。

画集を何度も見ているうちに、美沙さんがまだ生きていらして、しかも私の友人のような気がしてきます。そんな、動物たちへ向ける温かなまなざしとお人柄が感じられる絵なのです。

美沙さんは、きっとこれからも、残された数々の絵を通して、私達に語りかけてくれるのでしょう。
ぜひ足を運んで下さるよう、お願いします。

また近くなりましたら、ここで改めてお知らせします。




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