日々コウジ中

日々コウジ中 - クモ膜下出血により、さまざまな脳の機能不全を抱える“高次脳機能障害”になったコウジさんを支える家族の泣き笑いの日々

2019年10月

緒方貞子さんが22日に亡くなったそうです。
私が中学生の頃、母から「緒方貞子さんという偉い人がいるのよ。」と教わって以来40年以上、そのご活躍は折にふれて見聞きしてきました。が、今回のご逝去によって、新聞やテレビで報道される緒方さんの人生やなされてきたことを知り、日本だけでなく、世界にとって大変な喪失だということが改めてよくわかり、強く深いショックを受けています。

1976年に日本人女性として初めて国連公使となられたこと、91年女性として初めて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップに就任されたこと、イラクでトルコから入国を拒否されたクルド人40万人の支援を決め、それがUNHCRが初めて「国内避難民」を助けるきっかけとなったこと(それまでUNHCRの支援対象は、「国外に逃れた難民」だけだった)、ボスニア・ヘルツェゴビナやルワンダでも難民支援をされたこと、ほかにもアフガニスタン、イラク、シリア、ミャンマーからのロヒンギャ難民の支援をされたこと、訪れた現場は40か国以上になること、国際協力機構(JICA)理事長だったことなど、1人の女性がこれほどまで世界の難民という弱者のために果敢に活動されたというのは、本当に驚くべき素晴らしいことです。

150センチの小柄な体から、「5フイート(150センチ)の巨人」と呼ばれたり、「ヘルメットと防弾チョッキを身に着け現場に向かう高等弁務官として知られていた」(ロイター通信)そうです(本日の東京新聞第2面より)。

以下、新聞記事からの転載です。緒方さんの人となりがわかると思いますので、お読み下さい。

~朝日新聞(本日)記事から(第3面)~
緒方さんは16年の国際シンポジウム「朝日地球会議」に寄せたメッセージでこう述べた。「難民問題は私の高等弁務官時代より量・質ともにより深刻になっている。重要なことは苦しんでいる人々に関心を持ち、思いを寄せ、行動をとることだ。人々が互いを思いやることこそが、人間の最も人間らしいところだと思う。」

NPO法人難民支援協会の石川えり代表理事は「日本は難民問題でもっと積極的な役割を果たせるはずだ、と話していたのが印象的だった」という。

~同新聞(第14面)~
「人間を助けることが何より大事と考えた」「命さえあれば次のチャンスが生まれる」

~東京新聞(本日)記事から(第6面)~
国際協力機構(JICA)の理事長就任時にインタビューした時「自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているんだから」と答えた。
「文化、宗教、信念が異なろうと大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。難民の誰も見捨てない。」

~同新聞(第1面)~
緒方さんは、自身の判断基準を「『生きてもらう』ということに尽きるんですよね。いろんなやり方があっても、それが大事なことだと思いますよ。それが人道支援の一番の根幹にある」(著書「共に生きるということ be humane」)と説明している。

高次脳機能障害者家族としても、共感できる言葉ばかりです。
ご冥福を祈るとともに、緒方さんの遺志を残された私達は継いでいきましょう。
そして難民問題について、もっと目を向け真剣に考えなくては、と思いました。

最後に、東京新聞第1面の「筆洗」というコーナーのお話が、また良かったです。
「(難民が)生きているからこそ保護できる。国際法がどうであろうと生き続けるようにする。」
「スピード、現場主義。その人の仕事はいずれも人の命を守りたいという思いやりと情熱から生まれていた」
「聖心女子大学時代、初代学長のマザー・ブリットさんにこう教えられたそうだ。「社会のどんな場所にあっても、その場に灯をかかげられる女性になりなさい」。思いやりの灯はどれだけ多くの人を救い、希望となったことか。灯が遠ざかる。」

読んでいて、泣けてきました。心細くなってきました。緒方さんがいなくなって、私達は大丈夫なのだろうか。否、灯を消すことなく、かかげ続けましょう!

・・・昨日の続きです。緒方貞子さんと同じように、灯をかかげられている女性、サ―ロ―節子さんのお話 その2です。

サ―ロ―節子さんは、放射能について、すぐ亡くなる人もいれば、1週間後、1か月後、1年後に亡くなる人もいて、いつそれが表面化するかわからなかったと仰いました。

みんな家が無くなりホームレスだった。土の上で休み、亡くなっていった。市外から救援に入ってきた人たちが、亡くなっていった。
ただ節子さんはラッキーで、親戚の家に身を寄せられ、そこでは食べるものも着るものもあった。

日本政府は10年間何もしてくれなかった。というより、混とんとしていて何もできなかった。政府が機能していなかった。政府は、広島や長崎で原爆というものが落ちたことを耳にしていても、何もなかった。広島市の職員が、色々提供してくれていた。

国民は、日本は神の国だから負けない、と信じていた。
ほどなく進駐軍が入ってきた。マッカーサーだ。

国を民主的にし、労働、金融、教育、女性に参政権を与えるなど、有難いこともあった。
けれど広島と長崎には、それと反対のことがされた。
ABCCという、役所のようなクリニックのようなものが、原爆の被害者の健康状態を調べると言う。

広島の人達は、大喜びした。薬や包帯もあるだろう、と。
ところが実際は、放射能が人間の体にどう影響したかを調べるのが唯一の目的だったので、治療はなかった。
(私は、この話はマンガ『はだしのゲン』(中沢啓治)で知っていました。ゲンのお母さんが、ABCCに検査だけされ、治療を受けられなかったシーンは悔しかった。)

この話に先立ち、節子さんは、広島は10大都市の1つだったのに、それまで全く空襲を受けていなかったのを、市民は皆不思議がっていた話をされました。そしてそれは、広島には原爆投下が既に計画されていたからであったことを後で知ったそうです。何度も空襲を受けて焼野原になったところに原爆を落としても、原爆の効果(威力)はわからないから、あえて広島には何もしていなかったと。ひどい話で、胸が震えます。)

新聞社は発行禁止になった。核兵器が人間にどういう災害をもたらすかを、世界が知るべきではない、だから書いてはならない、と。

被爆者の日記や手紙、胸の痛みを短歌にまとめている人、写真やフィルム、医療に関する情報などは、没収し始め、それは米国に送り返した。自分達(アメリカ人)に不都合なものは隠す、そのどこが民主国家だろうか。民主国家ではない。マッカーサーは、被爆者への態度は、違ったのだ。

節子さんはまだ13歳だったので、身に沁みてはあまり覚えていない。
(つづく)

サ―ロ―節子さんの御講演が、去る10月27日(日)、渋谷の青山学院女子短期大学礼拝堂でありました(落合恵子さんのクレヨンハウス主催、「原発とエネルギーを考える朝の教室」)。

私は夫コウジさんが風邪でしたが、小康状態でしたし、娘ワッチもいるので安心して出かけていきました。(余談ですが、コウジさんは先週金曜日に風邪で会社を休み、昨日月曜日も治らず休みました。この9月10月は、コウジさんにとっては魔の時期のようです。15年前はくも膜下出血になり、去年は肺炎になり、ともに入院しました。今年は風邪だけで良かったです。)


会場は満席で、「キャンセルはありませんか?」という問合わせ電話がひっきりなしだったそうです。私は9月12日に表参道の「東京ウィメンズクラブ」で催された「女性九条の会」へ行き、そこで話された落合恵子さんから、今回の講演会を知ったのでした。だからすぐ申し込みができましたし、私のこのブログでもお知らせしておきました。

なんといってもサ―ロ―節子さんといえば、ノーベル平和賞を受賞されたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)の活動に深くかかわられ、授賞式には感動的なスピーチをされましたよね。ご著書に『光へ向かって這っていけ』(岩波書店)があります。

礼拝堂の真ん中あたりの席で、前を向いて座って講演開始を待っていると、突然サ―ロ―節子さんが車椅子に乗ってそばを通られました!目の覚めるような青いブラウスに、紺色のジャケットを羽織り、真珠のネックレスをされた節子さんは、とても美しくて若々しくて、87歳とは信じられませんでした。輝くような笑顔を振りまかれながら登壇すると、日本語で話し始められました。私はその時まで、(もしかしたら節子さんは英語で話されるのかな。通訳がつくのかな。)と思っていましたが、カナダでの暮らしが長いとはいえ、結婚されるまでは日本にいらしたのですから、日本語がお話になれて当然なのでした。

節子さんは、これまで日本でお話になることはほとんどなく、東京でお話されるのは、なんと初めてだそうです。天皇の即位正殿の儀に招かれ来日を予定されていた節子さんに、落合さんが「朝の教室」での御講演を依頼されたところ、OKして下さったんだそうです!落合さんのおかげで、私たちは目の前で節子さんのお話を聞けるという幸運に恵まれたのでした。クレヨンハウスさん、有難うございます!

節子さんは、クレヨンハウスが過去100回以上も原発の話をする会を続けてきたことに、「日本に、そんな会があるとは!」と驚いていました。そして、この「朝の教室」(今回は午後でしたが)には同志がいて励みになる、今その同志の中にいることを感謝している、と仰いました。

去年は母校である広島女学院大学で講演されたそうですが、その時もドキドキしていたけれど、今もドキドキしているそうです。話すことを紙に書いて話す方が楽だけれど、書いたものがあるとそれに依存してしまうので、今回はアウトラインだけ書いてきて、あとは自由に話されるとのこと。話の流れは、まず自分がなぜ反核を唱えるのか、その動機付け、信念、海外での反核運動とその結果、次にしなくてはいけないのは何か?日本に住んでいる皆さんへの期待・・・などを話したいと仰いました。

以下、節子さんが話されたことをメモしましたので、それを元に記します。尚、私の汚い字のメモ(ところどころ判読不能)と、私の記憶だけで書いていきますので、細かい言葉の言い回しや、話の順序など、実際とは異なるかもしれないことをご了解ください。

「原爆」・・・この運動の原点だと思っている。74年が過ぎ去った。もう1度私の口を通して体験して下さい。そのあとに私の思い入れを話します。

静寂の中、暗い中、ハリウッド映画のスローモーションのように、被爆した人たちが町の中心部から、そろりそろりと出てきた。髪は逆立ち、飛び出した目玉を手で受け止めている人、皮膚がむけた人・・・阿鼻叫喚というものではなかった。大声をあげる体力がない。皆、かすれた声で、「お水を下さい。」と水を求めていた。

節子さんたち3人の学生は、傷が軽かった。広場には何千人という人がいた。医療専門家の80%は亡くなっていた。節子さんたちは、自分の濡れたブラウスを水が湧いているところへ行って浸し、水を欲しがっている人たちの口元でしぼって口に入れた。それしかできることがなかった。薬も包帯もないのだから。3人で夕方になるまで、その作業をやった。山の上から、一晩中、広島の町が焼けるのを呆然と見ていた。あまりにも刺激が大きすぎて、あまりにもグロテスク過ぎて、我々の心は閉ざされてしまう、「心的麻痺」という状態だということを、のちにイエール大学で学んだ時に、専門家から聞いた。それは、我々の心を自動的に守る働きなのだと。

節子さんの親戚は9人亡くなった。
原爆投下の翌日、町の建物が全てなくなったので、遠いと思っていた瀬戸内海が近くに見えた。
600メートル上空で、原爆が破裂。そこでは摂氏100万度以上あり、地上では3千~4千度。作業していた人たちの中には、高熱で一瞬で蒸発した人もいたと言われている。

節子さんの親友の話では、先生も生徒も目が腫れてお互いを見えないけれど、声でわかるから集まり、「主のみもとに近づかん」という讃美歌を歌いながら、1人1人亡くなったという。その親友もその何か月かあとに亡くなった。
先生が、「赤十字病院へ行きましょう。」と言い、その先生の肩を生徒が触ると、ずるりとむけて白い骨が現れた。

節子さんの姉が、4歳の息子を連れておはぎを持って訪ねてきていた。その姉と甥が被爆した。甥は肉の塊のようになったけれど、それでも「水、水」と言っていた。死んだ人は火葬された。火葬している兵士は言葉が荒く、「顔が焼けていないぞ」「おなかが焼けていないぞ」と言いながら、死体を豚か虫のように転がして焼いていた。節子さんは、それを感情なく見ていた。その時のことが、節子さんを長年苦しめてきた。自分は最愛の姉があんな方法で葬られていたのに、涙1つ流さなかった、なんて人でなしなんだろう、と。けれど大学で心理学を学んで、ギリギリの状態で人間がどういう行動を取るのかを研究した。そして自分のあの時の状態は、「心的麻痺」というものだとわかり、やっと自分を許すことができるようになった。

4歳の男の子が、焼きただれた一切れの肉(人間ではない)になったけれど、それは1人じゃなくて、36万人の人達がそういう経験をした。 その時の光景、記憶、イメージが、節子さんには絶えず励ましになってきた。2度とああいうことが起きてはいけないのだ、と。

(つづく)

朝からずっと土砂降りでした。
ようやく小降りになったのは、夕方遅く。
この豪雨は、千葉や茨城などでまた被害をもたらしているようで心配です。
猛暑が終わったと思ったら、台風や豪雨。いい季節が少ないですね。

そんな疲れやすい天気が続くからでしょうか、コウジさんが、風邪をひきました。
彼は昨日あたりから喉が怪しかったのですが、今日も会社へ行くつもりで朝ご飯を食べた後、なんとなくしんどそうに見えたので、「熱を測ってみて。」と体温計を渡しました。

すると38度近くあったので、「ああ、これじゃダメだ。今日は休んだ方がいいわね。」と寝かせました。私が会社に連絡して少しすると、起きてきたコウジさん。「朝ごはんは?」とのたまいました。

「なに言ってるの、もう食べたでしょ。」と洗った食器を見せると、「あ、食べたのか!」と安心した表情。「食欲があるから、大した風邪じゃないわね。ほらほら、寝てて。」と寝かせ、(今日は病院へ行かせないとダメかな~。)、と思いました。

会社からも、高熱が続くようだったらインフルエンザかもしれないから、受診を勧めるというメールが来ました。たしかに肺炎やインフルエンザだとおおごとなので、午後病院へ行かせることにしました。我が家から歩いて2分くらいのところに病院があるので、そこなら体に負担にならないと思い。

土砂降りの雨も、3時頃少し小降りになったので、3時半からの診察時間の一番に行かせました。
まだすいていたようで、ほどなく帰ってきたコウジさんは、晴れ晴れした表情で、「大丈夫だった!」と。インフルエンザの検査もして、普通の風邪だったようです。「それは良かったね。で、薬は?もらってきた?」と言う私に、「薬?」ときょとんとするコウジさん。そして、「あ、あそこは薬くれないところじゃん!」言います。またまた、なにを適当なことを言って・・・。

ここらへんの病院に限らず、院外処方になっている病院が多く、処方箋をもらうとどこか好きな薬局に提出して、薬をもらわなくてはなりません。「薬もらってこないと始まらないでしょ、何しに行ったの?」と呆れる私と、そばで聞いていたワッチも「考えられない。」とため息。

コウジさんが持ち帰った紙数枚の中に、ちゃんと処方箋が入っていましたから、またそばの薬局へ行ってもらいました。熱のあるコウジさんをあまり動かせるのは良くないのはわかっていましたが、私は私で、ウメを病院へ連れて行かなくてはならなかったのです。それに、コウジさんは割と生気が戻ってきびきび動けていたので、大丈夫だな、と思ったわけです。
良かった、去年みたいにいきなり肺炎で10日入院、なんてことにならなくて。
それにしても、コウジさんてホントに体が弱いな。(私に比べると。)
ま、仕方ない。明日もあさっても休みだから、万全の体調に戻して会社へ行けるようにしなくちゃ。

今日はお知らせを沢山書きたかったのですが、時間がなくなり1つしか書けません。(あと5分で零時ゆえ。)

11月3日(日)に京都で、3回目になる、高次脳機能障害の普及啓発フェア「こうじの世界#3 高次脳機能障害×麹」が開催されます。

12時~16時で、参加費無料 申込不要です。
場所は、ゼスト御池 河原町広場

http://koujinoukinou-city-kyoto.jp/wp-content/uploads/2019/09/eaea6f845588a3996dc038023e05ce7b.pdf


『こうじの世界』とは,広く市民の方に高次脳機能障害を知っていただこうと,「麹」の人気にあやかり開催している普及啓発事業です。

<舞台>
高次脳機能障害のミニ講座,当事者・ご家族の経験談
・協力機関・企業・事業所によるミニ講話
●THE GOLD☆STAR(演奏)・・・高次脳機能障害にゆかりのあるバンド
● 吹奏楽団PALWINDS(演奏)・・・京都で活動する社会人吹奏楽団
● 立命館大学マンドリンクラブ(演奏)・・・京都の大学生クラブ
など

<いろいろ>
・協力機関・企業・事業所の販売・情報展示コーナー
・協賛企業の人気商品が当たる抽選コーナー

<お問合せ先>
京都市高次脳機能障害者支援センター
Tel 075-823-1658 / Fax 075-842-1541

是非お立ち寄りください!

川崎市高津区のマンション1階で、浸水のため亡くなった男性がいらっしゃいました。
最初の報道では、娘さんは友人宅に避難して無事だったと聞いていたので、なんでお父さんも一緒に避難しなかったのだろう、と不思議でしたが、多分お父さんも娘さんも、天井まで浸水するとは思わなかったのでしょう。私もそうですが、これほどの被害になるとはきっと誰も思っていなかったので、仕方ないながら、無念な事故でした。

今朝ネット記事を読んでいて、理由がわかり愕然としました。
男性はペット4匹を飼っていたそうなんです。
犬2匹とうさぎ2匹を。

避難するにも避難所はペットを受け入れていないところが多く、他人の家にも遠慮があってペットを連れて避難できなかったでしょう。そして男性は、ペット4匹と一緒に亡くなったというのです。なんて可哀想で、痛ましい事故でしょう。

宍戸大裕さんの映画『犬と猫と人間と2 動物たちの大震災』でも、犬のコロスケちゃんを連れて小学校に避難した磯崎ご夫妻が、犬は中に入れないと言われて外に繋いでおいたところ、津波でコロスケちゃんは死んでしまったので、嘆かれていました。

その後避難所ではペット同行(ペットと人間の居場所は別】・同伴(居場所は同じ)が進んできているようで、次のようなサイトがありますので、ペットを飼われている人はご参考下さい。

「災害・あなたとペットは大丈夫?」(環境省)
https://www.env.go.jp/nature/dobutsu/aigo/2_data/pamph/h3009a.html

高津区で亡くなった犬とうさぎたちも、死にたくなかったよね。でも飼い主を信じていたんだよね。そして勿論、飼い主の男性だって、こんなことになるとは思っていなかっただろうと思うと、切なくて、切なくて。

ペットの命を預かっている飼い主は、ペットの命を守るために行動しなくてはいけないんだ、ということを思い知らせてくれた悲しい事件でした。飼い主の男性と犬とうさぎたちのご冥福を祈ります。

これから今回のような大きな台風が増えていく、といわれています。
この悲しい事件を決して無駄にはせず、台風や地震その他の災害時には、早めに情報を集めてペットと自分の命を守れるような対策を立てておきましょう。

でも災害時は一刻も争う事態になり、自分1人では動転してしまうと思うので、日頃からペット仲間、友人知人近隣の人達と情報を共有、助け合える関係を築いておくといいでしょう。

私も今日、飲料水をアマゾンで注文しました。(アマゾンで掲載されている水は安いのが多いし、重たいのを無料で運んでくれるので、楽だから重宝しています。)
大人1人が1日に必要な飲み水は、2~3リットルだそうです。
我が家は3人+犬猫計3匹なので、1日に10リットルくらいあればいいかな。
5日分くらい用意しておけばいいかな。

あとは人間の食料と犬猫の食料を5日分。人間食料は、高カロリービスケット、チョコ、缶詰など?きっと電気も使えないでしょうから。
お風呂の水は、流さず溜めておきます。

でも、なるべく災害は来ませんように・・・。

ところで、台風19号後の多摩川河川敷を、猫を捜し歩いて下さっている小西さんから、夜、連絡が入りました。
3匹の生存を確認したとのこと!

でもパニックになっている猫たちに近づかないように、私が小西さんに送っていた猫餌を与えてくれたところ、食べていたそうです。良かった!私も役に立った! でも、きっと台風後、何も食べていないような感じだったとのこと(涙)。
まだ、今なら助けられる命があるんです。私も河川敷にすっ飛んで行って、お腹を空かせた猫を探したい気持ちですが、地図を見ても河川敷は広大過ぎて、やはり30年以上も河川敷を歩き回っている小西さんじゃないと、どこに猫がいそうかなど、わからないです。

小西さんという多摩川の神様のような方がいて、本当に有難いです。
私は、お手伝いしかできずもどかしいですが、とにかくそこで懸命に生きていた猫たちが、どこかで生き延びていることを願う毎日です。

前回15日にブログを書いてから、1週間あいてしまいました。今日までブログを書く時間がなかったのです。すみません。

16日は映画監督の宍戸大裕さん(作品は、『犬と猫と人間と2』『風は生きよという』『道草』など)と浅野史郎先生(元厚労省障害福祉課長、元宮城県知事、現在神奈川大学教授)と夫と私とで会い、18日はまた宍戸さんと浅野先生と児玉真美さん(フリーライター。娘さんが重症心身障害者。日本ケアラー連盟代表理事)と渡辺一史さん(作家。『こんな夜更けにバナナかよ』著者)とお会いしました。大体、宮城県在住の宍戸さんと、広島県在住の児玉さん、そして北海道在住の渡辺さんがたまたまその日その時間帯に同じ横浜にいる、というまさに奇跡的なタイミングで実現した会合だったのです。

さらにそこに、私は初対面となる日浦美智江さん(日本で初めて、重度心身障害者の通所施設「朋」を設立された方)、田坂さつき先生(立正大学教授)、その他共同通信社や読売新聞社の記者の方、横須賀市議の方なども集って下さり、大所帯の会食となりました。

やまゆり園事件の話や、児玉さんの新著の話、哲学の話、その他色々な話が飛び交っていたのですが、私は不勉強ゆえ知らないことも多く、こっちの話を途中まで聞いたと思ったら、あっちの話も気になったりで、頭の中が中途半端な話でいっぱいになってしまいました(涙)。

しかも、写真を撮るのが好きなものですから、自分の席を離れて色々な方を撮影しているうちに2時間弱が経ち、翌日仙台で上映会を控えている宍戸さんがまず退席。 そのあと30分くらいして、やはり翌日札幌で用事が入っている渡辺さんが退席。あれよあれよと言う間にお開きとなり、その日は都内に泊まるという児玉さんと、途中まで一緒に帰ってきました。

児玉さんの新著『殺す親 殺させられる親』(生活書院)は、とても読み応えのある本です。ケアラー(介護者)についての記述にも多く割かれてあります。是非ご一読を。

翌19日は石倉昇先生の囲碁教室がありましたが、前日の興奮と疲労が残り、対局は惨敗。家には大工さんが入っているので、大急ぎで帰宅。9月中には完成していたはずのバルコニー修理が、台風や雨、祝日が多く1か月長くかかりました。大工さんも大変ですが、私もいつもそばにおじさんたちがいる生活で、やはりなんだか落ち着かず疲労気味の1か月半です。

翌20日は実家へ母の様子見や、冬物衣類寝具を取りにコウジさんとワッチと行きました。
すると、隣家の方から、実家の「2階のベランダの排水溝が、枯れ葉などで詰まっているのでは?この間の台風の時、トイではないところからすごい音で雨水が流れ落ちていたわよ。」と言われたので、ベランダを見に行きました。

すると言われていた通り、ベランダはくるぶしくらいまで雨水がたまっていて、水がはけていませんでした。 母は転んだらいけないので2階には滅多に上っていなかったようで、母も水浸しのベランダを見て驚きました。
最初母が「私がやるわ!」と率先して長靴を履いて排水溝の掃除を始めたのですが、すぐ腰が痛くなったので私に替わってくれ、残り2つの排水溝掃除を私がしました。 こんなことはここ20年で初めてだったので、横浜にも台風は相当量の大雨を降らせたようです。

コウジさんと母は囲碁をしていましたが、私はベランダ掃除で疲れて囲碁する時間も気力もないし、これからまた運転なので、体力温存。 けれど実家から戻る途中、今度はワッチが実家にリュックを忘れたことに気づき、1回実家に戻り1時間のロス。 夕方6時に帰宅してから、また私がウメの散歩に1時間出ました。 ウメはコウジさんだと、すぐ帰ってきてしまうので、ゆっくり歩く私と散歩に行きたがるのです。

昨日は天皇の即位礼正殿の儀で祝日となっていましたが、すごい雨でしたね。
私は時々テレビを見ましたが、昨日はほとんど講義資料作りに追われていました。

実は神奈川大学の浅野史郎先生のゼミで、高次脳機能障害についてお話させて頂く機会を頂いたのですが、それが今日だったのです。講義の話についてはまた改めますが、資料を使おうと思って、張り切って作ったそれを、いざ印刷してみようと思ったら、がーん・・・ 印刷できなかったんです。

数か月前にプリンターが修理必要となったので、買い替えた方が安かったら買い替えたのはいいけれど、パソコンとプリンターを繋ぐ設定がうまくできていないようなんです。
頼みのワッチは出かけているので、数時間四苦八苦していたものの、夜に諦めました。

そして、9月にあった気仙沼講演の資料を利用し、切り貼りしたり追加したりして、今回用に体裁を整えられたのが今日の午前1時半。それを今日午前中に印刷し、資料を保存したUSBを持って、いざ神奈川大学へ、と出かけていったのでした。 

そんなわけで、この1週間、資料作りの合間にウメの病院もあったり、「アニマルクラブ石巻」の台風被害を聞いてお見舞いを送ったり、頻繁に多摩川猫の状況を確認したり、多摩川猫写真家の小西修さんにメールしたりしてあっという間でした。いまだに多摩川河川敷で暮らしていた猫たちは、見つからないそうです(追記:見つかった猫もいるようです)。こんなに大きな台風は、2008年9月以来とのことだそうで、、毎日河川敷を猫の姿を求めて探し回って下さっている小西さんご夫妻には、頭が下がります。そこで懸命に暮らしていた多くの猫達が、流されていないで、どこか住宅地に避難してエサや水をもらえていますように・・・。

台風被害を受けて避難所などで暮らさざるを得ない人は、どれだけ疲れていらっしゃるだろうと思うと、心配です。(つづく)

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