今日の囲碁教室での話です。
対局しながら私は、(相手のこのへんの石を一網打尽で取るために、周りを固めておこう。)と、虎視眈々とその瞬間を狙いながら1つ1つ石を置いていました。
けれど相手のYさんが、別の場所で私の石を囲みつつあったので、頭の半分を使ってそちらに対応しなければならず、頭のもう半分で(早くこっちを取りたいのに。)という焦りが募りつつありました。
Yさんが私の石を1つ取ったので、(ん、これはどういうことだろう?)とまだ余裕の気持ちでそこを見つめました。すると、いつの間にか後ろにいらした石倉先生が、「ああ、コウになってしまいましたね。加藤さん(私の本名)がそこじゃなくてここへ打っておけば、放っていても相手は生きられなかったのに。」と仰いました。
ああ、そうか。頭の半分でしか考えていなかったから、取れていたそこも逃してしまったのか。と半ばがっかりしながらも、まだ自分の石が死んだわけではないので、コウザイ(コウになったところはすぐ打てないので、相手が対応せざるを得ない別の箇所)を探しました。
すると、ありました、ありました。私が打つと、相手が守らなければ10石くらい取れる箇所が見つかったので、そこに打ちました。ここを相手が守れば、私はまたコウの場所に戻って打てるのです。
ところが相手のYさんは、何を勘違いされたのか、守らずにそのそばへ石を置きました。
私は驚き、「え、じゃあここに置いて取ってしまいますよ。」と石を置きました。
Yさんは「あ!本当だ!」とびっくりし、そこで多分決着がつきました。
でもまだ私は、一網打尽で取れると思っていた場所に未練がありました。取りたかったなあ、と。
石倉先生がまたやってきて、「あれ?」と驚きました。
そして、Yさんにコウザイはなかったこと、でもYさんもこっちを打ったら勝てたことなど色々解説されるので、私は得意気に「先生、そんなことより私はここらへんの石を一網打尽しようと思って狙っていたんですよ。」と言って、取ろうと思っていたYさんの石群を指で囲みました。
プロの九段の先生がそこに気づかれていないはずはないけれど、もしかしたら気づいていないのかもしれない、と教えようとする私の図々しさというか、能天気さというか。否、愚かさですね。
すると、石倉先生が次のように仰ったので飛び上がりました。
「え? だって、ここ(私が囲もうとして作ってあった私の石の壁)は死んでるから、無理ですよ。」と。
なぬ? そっくり返って笑っていた私は驚いて真顔になると、碁盤に顔を戻して、死んでいると言われた自分の石を見ました。先生は、「ここにYさんが打つでしょ、加藤さんが囲もうと思っている手数より少ない手数で、Yさんが加藤さんの石を取れちゃうでしょ。」と、実際に石を置きながら説明してくれました。
ほんとだ~!なんてこと!なんで気づかなかったんだろう、とのけぞる私。
でも私の前ではYさんが、「私はそこに置こうと気づかないと思う。」と苦笑い。
7級同志だと、自分の弱点、相手の弱点にいい感じでお互い気づかず接戦になるということだなあ(笑)。
石倉先生は、「加藤さんは攻め碁。Yさんもそうだけど、自分の弱点にもっと気づかないと。」とアドバイス下さり、なるほど、と改めて反省しました。石倉先生は、「囲碁で一番大切なのは、自分の弱いところを守ることですよ。」とよく仰り、私も(ふんふん)とノートに書き留めているのに、どうしても弱いところを放っておいて攻めていってしまいます。そこを直さないとね。
というわけで、まだまだ下手ながら囲碁は本当に奥が深く面白い。あまりに負け続けて、自分には才能がないなあ、と落ち込むこともしばしばですが、きっと死ぬまでやると思います。夫コウジさんの言葉じゃないけれど、「囲碁は自分への挑戦」ですからね。囲碁で考え方を鍛えることは、生きる力を鍛えることに繋がると思います。そういえばコウジさんは、そんなことも言ってましたね。「陣地を取るというその陣地とは自分の命。人間の野心、才能、生きる力だ。」ですって。
こういう言葉をコウジさんは1年前に発していて、囲碁もまだあまりうまくないのに、いいことを言うなあ、と感心していました。元々お調子屋さんだけど、結構言うことに昔からセンスがあるコウジさん。・・・でも、自分がそう言ったことを忘れています(笑)。
コウジさんが発した言葉を書きとめていたので、さっき読み上げると、「オレ、そんなこと言ったの?すごいねえ。・・・でもその通りじゃん。今もその考えは変わらないよ。」とのこと。
ただ、まだまだ受け身のコウジさん。自分からは囲碁をやろうとしません。私が囲碁の会に連れて行ったり、囲碁友達を家に呼んできたり、私が囲碁の本を渡したりしないと、興味を示しません。そこが私とは違うんだなあ。そこが高次脳機能障害なのかなあ。それともコウジさんの性格なのかなあ。
明日の討論会を前に、改めてコウジさんに質問しました。なぜあなたは自分から囲碁をやらないのか?と。
コウジさんの答えは、「囲碁は、自分にとって与えられているものなんだよね。囲碁の面白さを自分からつかみとろうとするものでなく、誰かの施し。」なんだそうです。←今のところは。
そしてコウジさんは、受け身が好きなんだそうです。歌も好きだけれど、自分が歌うより、聞くのが好き(受け身)。←ああ、それは性格だね。じゃあ、今受け身でやっている囲碁も、好きなことは好きなのね。
あとは、自分にリスクがないことが好きだと。囲碁だと負けると嫌な気持ちになるから、自分からする気にならないと。←じゃあ、勝てるよう強くなればいいんだけどね。
・・・おや? あなたが会社を起業した時こそ、すごくリスクがあったと思うんだけど? ああ、でもあの頃はあなたもまだ若くて野心もあって、失敗することは思いもしなかったんだね。そういうあなたを私は否定しないけれど。夢はいつでも持っていたいものだし、持たないとね、うん。(まさかすぐ倒れて障害者になるとは、あなたも私も思っていなかったので、これは運命共同体で受け入れよう。)
それからコウジさんは、「誰かが喜ぶことが好き」なんだそう。囲碁をやると周りのみんなが喜んでくれるので、やるのだそう。←なるほどね。自分のためより、みんなのためなんだ。優しいじゃん!
・・・こういうコウジさんが、いつか囲碁を自分からやるようになったなら、その時は彼の中で何かが変わったということです。受け身から能動へ。気長に待ってます。
そのコウジさんが、明日はどんな発言をするのか、皆さん楽しみにしていて下さいね!私も楽しみです。
それでは明日、大田文化の森でお会いしましょう!
対局しながら私は、(相手のこのへんの石を一網打尽で取るために、周りを固めておこう。)と、虎視眈々とその瞬間を狙いながら1つ1つ石を置いていました。
けれど相手のYさんが、別の場所で私の石を囲みつつあったので、頭の半分を使ってそちらに対応しなければならず、頭のもう半分で(早くこっちを取りたいのに。)という焦りが募りつつありました。
Yさんが私の石を1つ取ったので、(ん、これはどういうことだろう?)とまだ余裕の気持ちでそこを見つめました。すると、いつの間にか後ろにいらした石倉先生が、「ああ、コウになってしまいましたね。加藤さん(私の本名)がそこじゃなくてここへ打っておけば、放っていても相手は生きられなかったのに。」と仰いました。
ああ、そうか。頭の半分でしか考えていなかったから、取れていたそこも逃してしまったのか。と半ばがっかりしながらも、まだ自分の石が死んだわけではないので、コウザイ(コウになったところはすぐ打てないので、相手が対応せざるを得ない別の箇所)を探しました。
すると、ありました、ありました。私が打つと、相手が守らなければ10石くらい取れる箇所が見つかったので、そこに打ちました。ここを相手が守れば、私はまたコウの場所に戻って打てるのです。
ところが相手のYさんは、何を勘違いされたのか、守らずにそのそばへ石を置きました。
私は驚き、「え、じゃあここに置いて取ってしまいますよ。」と石を置きました。
Yさんは「あ!本当だ!」とびっくりし、そこで多分決着がつきました。
でもまだ私は、一網打尽で取れると思っていた場所に未練がありました。取りたかったなあ、と。
石倉先生がまたやってきて、「あれ?」と驚きました。
そして、Yさんにコウザイはなかったこと、でもYさんもこっちを打ったら勝てたことなど色々解説されるので、私は得意気に「先生、そんなことより私はここらへんの石を一網打尽しようと思って狙っていたんですよ。」と言って、取ろうと思っていたYさんの石群を指で囲みました。
プロの九段の先生がそこに気づかれていないはずはないけれど、もしかしたら気づいていないのかもしれない、と教えようとする私の図々しさというか、能天気さというか。否、愚かさですね。
すると、石倉先生が次のように仰ったので飛び上がりました。
「え? だって、ここ(私が囲もうとして作ってあった私の石の壁)は死んでるから、無理ですよ。」と。
なぬ? そっくり返って笑っていた私は驚いて真顔になると、碁盤に顔を戻して、死んでいると言われた自分の石を見ました。先生は、「ここにYさんが打つでしょ、加藤さんが囲もうと思っている手数より少ない手数で、Yさんが加藤さんの石を取れちゃうでしょ。」と、実際に石を置きながら説明してくれました。
ほんとだ~!なんてこと!なんで気づかなかったんだろう、とのけぞる私。
でも私の前ではYさんが、「私はそこに置こうと気づかないと思う。」と苦笑い。
7級同志だと、自分の弱点、相手の弱点にいい感じでお互い気づかず接戦になるということだなあ(笑)。
石倉先生は、「加藤さんは攻め碁。Yさんもそうだけど、自分の弱点にもっと気づかないと。」とアドバイス下さり、なるほど、と改めて反省しました。石倉先生は、「囲碁で一番大切なのは、自分の弱いところを守ることですよ。」とよく仰り、私も(ふんふん)とノートに書き留めているのに、どうしても弱いところを放っておいて攻めていってしまいます。そこを直さないとね。
というわけで、まだまだ下手ながら囲碁は本当に奥が深く面白い。あまりに負け続けて、自分には才能がないなあ、と落ち込むこともしばしばですが、きっと死ぬまでやると思います。夫コウジさんの言葉じゃないけれど、「囲碁は自分への挑戦」ですからね。囲碁で考え方を鍛えることは、生きる力を鍛えることに繋がると思います。そういえばコウジさんは、そんなことも言ってましたね。「陣地を取るというその陣地とは自分の命。人間の野心、才能、生きる力だ。」ですって。
こういう言葉をコウジさんは1年前に発していて、囲碁もまだあまりうまくないのに、いいことを言うなあ、と感心していました。元々お調子屋さんだけど、結構言うことに昔からセンスがあるコウジさん。・・・でも、自分がそう言ったことを忘れています(笑)。
コウジさんが発した言葉を書きとめていたので、さっき読み上げると、「オレ、そんなこと言ったの?すごいねえ。・・・でもその通りじゃん。今もその考えは変わらないよ。」とのこと。
ただ、まだまだ受け身のコウジさん。自分からは囲碁をやろうとしません。私が囲碁の会に連れて行ったり、囲碁友達を家に呼んできたり、私が囲碁の本を渡したりしないと、興味を示しません。そこが私とは違うんだなあ。そこが高次脳機能障害なのかなあ。それともコウジさんの性格なのかなあ。
明日の討論会を前に、改めてコウジさんに質問しました。なぜあなたは自分から囲碁をやらないのか?と。
コウジさんの答えは、「囲碁は、自分にとって与えられているものなんだよね。囲碁の面白さを自分からつかみとろうとするものでなく、誰かの施し。」なんだそうです。←今のところは。
そしてコウジさんは、受け身が好きなんだそうです。歌も好きだけれど、自分が歌うより、聞くのが好き(受け身)。←ああ、それは性格だね。じゃあ、今受け身でやっている囲碁も、好きなことは好きなのね。
あとは、自分にリスクがないことが好きだと。囲碁だと負けると嫌な気持ちになるから、自分からする気にならないと。←じゃあ、勝てるよう強くなればいいんだけどね。
・・・おや? あなたが会社を起業した時こそ、すごくリスクがあったと思うんだけど? ああ、でもあの頃はあなたもまだ若くて野心もあって、失敗することは思いもしなかったんだね。そういうあなたを私は否定しないけれど。夢はいつでも持っていたいものだし、持たないとね、うん。(まさかすぐ倒れて障害者になるとは、あなたも私も思っていなかったので、これは運命共同体で受け入れよう。)
それからコウジさんは、「誰かが喜ぶことが好き」なんだそう。囲碁をやると周りのみんなが喜んでくれるので、やるのだそう。←なるほどね。自分のためより、みんなのためなんだ。優しいじゃん!
・・・こういうコウジさんが、いつか囲碁を自分からやるようになったなら、その時は彼の中で何かが変わったということです。受け身から能動へ。気長に待ってます。
そのコウジさんが、明日はどんな発言をするのか、皆さん楽しみにしていて下さいね!私も楽しみです。
それでは明日、大田文化の森でお会いしましょう!