何のために生きるか、と言えば、人のため。世のため。犬のため。猫のため。生きている世の中全てのもののため・・・


 


 今朝たまたまテレビを見ていたら、ワタミの渡邊美樹さんが出ていて、中学生に向かい、「自分が大切か、他人が大切か。」と質問していました。


 中学生は皆、「他人が大切。」と答えました。


  渡邊さんはそれを、「まずは自分が大切。自分が満たされないと、他人のために何かできない。」というようなことを説いていました。


 


  たしかに、私はコウジさんが倒れて手一杯の時は、他人のことまで手が回りませんでした。 (とはいっても、コウジさんが倒れた時は、ワッチの小学校の広報委員で、委員が結束して作った見事な?広報誌は、東京都で1位、全国で4位に選ばれ、表彰式に私も行きましたし、 倒れて3年半後には、今度はクラス代表になり、結構忙しくしていました。コウジさんのことは、ほとんど他の方には言っていませんでした。)


 


 すると、私が理想と考える「助け合い」の世の中とは、個人個人が幸福でない限り、実現しないということ。


 


  これはたしか、宮沢賢治の言葉の逆になります。


 宮沢賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言ってます。


 


 これも又然り。


 


 自分が幸せな日々を送っていても、世界のどこかで餓えている子供達がいたり、貧困と病気、戦争に怯える人々がいたとしたら、自分の幸せというのは嘘の幸せなのだ、と思います。


  日本も今や貧困な人々が多く、とても豊かな国とはいえませんが。


 


  結局のところ、まずは自分ありき、で自分がきちんとしてから、他人や世界のために尽くし、そのことが又自分の幸せとして返ってくる、ということではないでしょうか。


 


 おお、それはまさに私が、「日々コウジ中」のP115に書いたこと。(何気に宣伝。)


 


  人間は窮地に追い込まれると、良い考えが浮かぶのです。これぞ、「窮すれば通ず」。


 


 そんなことを考えながら、今日もウメの3度目の散歩をする私。


 計算すると、起きている時間の8分の1はウメと散歩しています。


 つまり人生の8分の1!


 


  いくら犬のためになるとはいっても、焦りを感じますね~。


 


 それでもやっぱり、少なくとも夫、娘、犬、猫のためには役立っている (よね?) だけ、私の人生は意味あるのだ、と思うのでした。・・・と、これもP52に書いたな。


 


 雑誌原稿は昨日提出、今は来週の講演に話すことを考え中の私。


 なんだか頭の中が難しいことになっていて、今日のブログまで、その影響を受けてしまっているようです。すみません。