緒方貞子さんが22日に亡くなったそうです。
私が中学生の頃、母から「緒方貞子さんという偉い人がいるのよ。」と教わって以来40年以上、そのご活躍は折にふれて見聞きしてきました。が、今回のご逝去によって、新聞やテレビで報道される緒方さんの人生やなされてきたことを知り、日本だけでなく、世界にとって大変な喪失だということが改めてよくわかり、強く深いショックを受けています。

1976年に日本人女性として初めて国連公使となられたこと、91年女性として初めて国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップに就任されたこと、イラクでトルコから入国を拒否されたクルド人40万人の支援を決め、それがUNHCRが初めて「国内避難民」を助けるきっかけとなったこと(それまでUNHCRの支援対象は、「国外に逃れた難民」だけだった)、ボスニア・ヘルツェゴビナやルワンダでも難民支援をされたこと、ほかにもアフガニスタン、イラク、シリア、ミャンマーからのロヒンギャ難民の支援をされたこと、訪れた現場は40か国以上になること、国際協力機構(JICA)理事長だったことなど、1人の女性がこれほどまで世界の難民という弱者のために果敢に活動されたというのは、本当に驚くべき素晴らしいことです。

150センチの小柄な体から、「5フイート(150センチ)の巨人」と呼ばれたり、「ヘルメットと防弾チョッキを身に着け現場に向かう高等弁務官として知られていた」(ロイター通信)そうです(本日の東京新聞第2面より)。

以下、新聞記事からの転載です。緒方さんの人となりがわかると思いますので、お読み下さい。

~朝日新聞(本日)記事から(第3面)~
緒方さんは16年の国際シンポジウム「朝日地球会議」に寄せたメッセージでこう述べた。「難民問題は私の高等弁務官時代より量・質ともにより深刻になっている。重要なことは苦しんでいる人々に関心を持ち、思いを寄せ、行動をとることだ。人々が互いを思いやることこそが、人間の最も人間らしいところだと思う。」

NPO法人難民支援協会の石川えり代表理事は「日本は難民問題でもっと積極的な役割を果たせるはずだ、と話していたのが印象的だった」という。

~同新聞(第14面)~
「人間を助けることが何より大事と考えた」「命さえあれば次のチャンスが生まれる」

~東京新聞(本日)記事から(第6面)~
国際協力機構(JICA)の理事長就任時にインタビューした時「自分の国だけの平和はありえない。世界はつながっているんだから」と答えた。
「文化、宗教、信念が異なろうと大切なのは苦しむ人々の命を救うこと。難民の誰も見捨てない。」

~同新聞(第1面)~
緒方さんは、自身の判断基準を「『生きてもらう』ということに尽きるんですよね。いろんなやり方があっても、それが大事なことだと思いますよ。それが人道支援の一番の根幹にある」(著書「共に生きるということ be humane」)と説明している。

高次脳機能障害者家族としても、共感できる言葉ばかりです。
ご冥福を祈るとともに、緒方さんの遺志を残された私達は継いでいきましょう。
そして難民問題について、もっと目を向け真剣に考えなくては、と思いました。

最後に、東京新聞第1面の「筆洗」というコーナーのお話が、また良かったです。
「(難民が)生きているからこそ保護できる。国際法がどうであろうと生き続けるようにする。」
「スピード、現場主義。その人の仕事はいずれも人の命を守りたいという思いやりと情熱から生まれていた」
「聖心女子大学時代、初代学長のマザー・ブリットさんにこう教えられたそうだ。「社会のどんな場所にあっても、その場に灯をかかげられる女性になりなさい」。思いやりの灯はどれだけ多くの人を救い、希望となったことか。灯が遠ざかる。」

読んでいて、泣けてきました。心細くなってきました。緒方さんがいなくなって、私達は大丈夫なのだろうか。否、灯を消すことなく、かかげ続けましょう!

・・・昨日の続きです。緒方貞子さんと同じように、灯をかかげられている女性、サ―ロ―節子さんのお話 その2です。

サ―ロ―節子さんは、放射能について、すぐ亡くなる人もいれば、1週間後、1か月後、1年後に亡くなる人もいて、いつそれが表面化するかわからなかったと仰いました。

みんな家が無くなりホームレスだった。土の上で休み、亡くなっていった。市外から救援に入ってきた人たちが、亡くなっていった。
ただ節子さんはラッキーで、親戚の家に身を寄せられ、そこでは食べるものも着るものもあった。

日本政府は10年間何もしてくれなかった。というより、混とんとしていて何もできなかった。政府が機能していなかった。政府は、広島や長崎で原爆というものが落ちたことを耳にしていても、何もなかった。広島市の職員が、色々提供してくれていた。

国民は、日本は神の国だから負けない、と信じていた。
ほどなく進駐軍が入ってきた。マッカーサーだ。

国を民主的にし、労働、金融、教育、女性に参政権を与えるなど、有難いこともあった。
けれど広島と長崎には、それと反対のことがされた。
ABCCという、役所のようなクリニックのようなものが、原爆の被害者の健康状態を調べると言う。

広島の人達は、大喜びした。薬や包帯もあるだろう、と。
ところが実際は、放射能が人間の体にどう影響したかを調べるのが唯一の目的だったので、治療はなかった。
(私は、この話はマンガ『はだしのゲン』(中沢啓治)で知っていました。ゲンのお母さんが、ABCCに検査だけされ、治療を受けられなかったシーンは悔しかった。)

この話に先立ち、節子さんは、広島は10大都市の1つだったのに、それまで全く空襲を受けていなかったのを、市民は皆不思議がっていた話をされました。そしてそれは、広島には原爆投下が既に計画されていたからであったことを後で知ったそうです。何度も空襲を受けて焼野原になったところに原爆を落としても、原爆の効果(威力)はわからないから、あえて広島には何もしていなかったと。ひどい話で、胸が震えます。)

新聞社は発行禁止になった。核兵器が人間にどういう災害をもたらすかを、世界が知るべきではない、だから書いてはならない、と。

被爆者の日記や手紙、胸の痛みを短歌にまとめている人、写真やフィルム、医療に関する情報などは、没収し始め、それは米国に送り返した。自分達(アメリカ人)に不都合なものは隠す、そのどこが民主国家だろうか。民主国家ではない。マッカーサーは、被爆者への態度は、違ったのだ。

節子さんはまだ13歳だったので、身に沁みてはあまり覚えていない。
(つづく)