今朝の東京新聞で、昨日の沖縄慰霊の日の記事を読んでいましたら、「公園から見える海を指さしながら 『米軍の船や潜水艦で海は真っ黒だった。』 」 と話される南風原春子さん(80歳)の言葉が載っていました。 

昨日のブログで、「当時の沖縄の海も、今日のように素晴らしい青さだったのでしょうか。」と書いた私は、想像力欠如も甚だしかった。そんなに米軍は、この沖縄南部に押し寄せていたのですね。

ガイドブックの 『ひめゆり平和祈念資料館』 には、「日本の沖縄守備群は総勢約11万人。それに対し、米軍の上陸部隊は18万3千人、後方支援部隊を加えると54万8千の大軍だった。」とあります。(P.46)

「兵力の少ない日本軍は、上陸地点で戦って短期間に兵力を失うことを避け、上陸後に米軍を沖縄に釘づけにすることで日本本土上陸を1日でも遅らせるという持久作戦をとった。」

「持久戦には自然洞窟が多い南部が適しているとして主力を置き、兵力を集中させた。この持久作戦が、沖縄戦を90日間まで長引かせ、多くの住民を砲弾の戦場にさらし、犠牲者を増やした。」
(※沖縄陸軍病院の糸数分室は、全長270メートルもある自然洞窟=ガマに、常時600名以上の負傷兵が収容されていたそうです。)

米軍が沖縄への上陸を開始したのは、1945年3月23日とのこと。(3月23日は、私の誕生日だ・・・。つらい)。

戦況が厳しくなり、陸軍病院では6月18日夜に解散命令が出され、ひめゆり学徒は自らの判断で行動することになります。けれど米軍の前に放り出された生徒たちは、砲弾に倒れたり、ガス弾攻撃を受けたり、手榴弾を胸にあて爆発させたり、海で波に飲まれたり、で数日のうちに100余名が亡くなったのです。
3月の動員から解散命令までの90日間での犠牲者が、19名だったのに対し、解散後の数日でこの多さです。行く先もわからないまま、米軍による攻撃の中をさまよい、命を落とした生徒たちの絶望と恐怖がどんなに大きかったか。

ところで、戦争に動員されたのはひめゆり学徒(沖縄師範学校女子部と、県立第一高等女学校)だけではありません。ひめゆり学徒222名のうち、犠牲者数は123名。ほかにも7つの女学校から計約270名が動員され、66名が犠牲に。男子学徒隊では、1420名以上が動員され、792人以上が犠牲になっています。(同P38~41の表にある人数を、計算しました。)

女子学徒は15歳から19歳、男子学徒は14歳から19歳。男子学徒の中には、急造爆雷を抱え米軍戦車に突撃していった人もいたそうです。

こんな年若い学生たちをも巻き込み、沖縄戦では県民人口の4人に1人が亡くなったのです。

本土決戦の準備に必要な時間稼ぎのために、捨石になった沖縄。

その状況は、今も変わっていないのです。
日本国土面積の0.6パーセントしかない沖縄に、日本にある米軍基地の74パーセントが集中している、という現実。どう考えても、おかしいでしょう。基地はいらないと思うけれど、どうしても基地が必要なら、日本全土で公平に分担しないと、おかしいでしょう。沖縄ばかりが、米軍兵による犯罪の犠牲を被っているなんて。

その犯罪を日本が裁けるようにする、日米地位協定の改定。これは絶対必要です。基地をなくすにも、時間がまだかかるだろうから、これを急がないと。 勿論、米軍兵が犯罪を起こさなければいいだけの話ですがね。

今回の沖縄訪問でも、安倍首相と翁長知事との会談は、なかったそうです。
辺野古移設を承諾した仲井間前知事の時は、会食があったそうですけど。
知事と話さない首相って、これもおかしい。(何も語らず都庁を去った舛添前知事も、おかしい。おかしいトップがトップにいるのは、おかしい。そうさせている私たち都民、国民もおかしい。おかしな日本だ~。)

今日は実家へ行っていました。ケアマネさんとの話です。
要介護2の母は、週3回ヘルパーさんに来てもらい、買い物や掃除、話し相手になってもらって、落ち着いた状態です。デイサービスは行きたがらないので行かせていませんが、趣味の囲碁、近所の人たちや友人たちに囲まれ、このまま1人暮らしが少しでも長く続けられたらいいな、と思います。

女性の方が男性より長生きなので、1人暮らしの女性は、日本中、世界中にいっぱいいることでしょう。
皆、家族だけでなく、近所や友人、医療職、介護職その他の支援して下さる沢山の方々に支えられながら(自立している方もいっぱいですが)、元気に長生きしてほしいです。