今日の世田谷は暖かかった昨日とは打って変わり、朝から気温も低い曇りの日で、夕方にはパラパラ小雨が降り出だしてきました。これから明日にかけては、もしかしたら雪になるかもという予報です。もし都心に11月に雪が降ったとしたら、54年ぶりだそうです。私も生まれていないワ・・・ 
昨年は登場の機会がなかった、雪かきスコップを出さなくちゃ。どこへ仕舞ったかな?

そんな寒い寒い午前中、外からは子供たちの賑やかな声が聞こえてきました。
今日は1年に1回ある、近所の餅つき大会なのです。ワッチも小さな頃は参加して、餅つき係の大人に支えられながらお餅をつかせてもらいました。つきたてのお餅は、やはりおいしいですよね。

コウジさんもこの1週間くらい、「23日は餅つき大会だ!」とずっと楽しみにしていて(食べるだけですが)、今朝5時頃ふと目覚めた時も、「今日はお餅つきだ。」とつぶやいて、また寝てしまいました。どれだけ楽しみにしているんだか・・・(笑)。

10時半から開始なのに(お餅の販売も)、10時頃から「じゃ、行ってくる!」と我が家から徒歩1分くらいにある会場へ出かけようとするので、ワッチから「やめてよ!恥ずかしい。小さな子供が待っているなら、「ああ、子どもだからね。」と思われるけど、大の大人が「早く、早く。」と待っているなんて。」とたしなめられ、口を尖らすコウジさん。どっちが大人だかわかりません。

10時半になって家を飛び出していったコウジさんは、黄な粉、胡麻、あんこの3つのおもちが入ったパック(1パック300円)を6つ買ってきて、今日は朝からお餅ばかり食べている我が家です。さすがに食べ切れないので、明日もレンジでチンしたお餅だ。

けれど、地域でこうした催しがあるって、いいことですね。お互いが顔見知りになれるし、地域も活気づくし。
このあたりは、大きなお祭りが1年に何度かあります。新年の新春まつり、夏の納涼まつり(盆踊り含む)、神社のお祭りなど。
都心とはいえ、割と近所づきあいも密で、家の前の道路で立ち話は日常茶飯事、ベランダ越しにもよく話しますし、竹の子ご飯を作ったから、とおすそ分けを頂いたり、どこかへ出かけたお土産など、食べ物のやりとりは多いです。

コウジさんとは、あれこれ失敗の多い生活でしたけれど、住まいにここを選んだことは、大成功だったね、とよく言い合います。近所の人たちは優しい人たちばかりで、病院も山ほどあって安心ですし、複数の路線の駅まで徒歩で行ける便利さ。車は不要だ、と手放す人も多いです。我が家の場合は、大雨の時にコウジさんやワッチを駅まで車で乗せたり、何より犬猫が病気になったら車で病院へ連れて行くので、やはり手放せませんが。

今日は休日(祝日)だったので、久しぶりにゆったりできました。でも、その人間の様子を見てか、散歩を催促するウメに3回も連れ出されて少しぐったり(うち2回はコウジさん。コウジさんはさっさと帰ってくるので、3回目は私に催促に来たウメ。私はウメのペースに合わせて歩くので、時間はかかりますが、まあ、元気に散歩できるうちは、なるべく散歩に行ってあげたいです)。

夕方からはアマゾンで注文した飯田基晴監督の『あしがらさん』を、コウジさんと見ました。路上生活者であったあしがらさんが、監督や周りとの温かいふれあいによって、普通の人(何をもって普通と定義するか、は人によりますが)になっていく経緯が感動的で、見ていて心がほっこりしました。でも、ホームレスさんについて、私はまだまだ無知です。

それから、多摩川流域の猫やホームレスさんのお世話をされている写真家の小西さんが、ご自身のHPに昨日、この私のブログをリンク先に貼って下さいました!嬉しいです!
小西さんのブログやHPを訪れる方たちのほとんどは、高次脳機能障害についてご存知ないか、関係ない方だと思われますが、そういう方たちにこそ、この障害を知って頂きたいですね。なぜなら、そうしたらこの障害のことを知っている人が増えるからです。(小西さんも、そう仰ってくれています。)

小西さん、有難うございました。やはり、猫やホームレスさんのお世話をされている小西さんは、障害者にも心を向けて下さるとても優しい方なんだなあ、と思います。
皆さんも是非小西さんのブログを読まれて、多摩川流域の猫やホームレスさんたちのことに心を馳せられたり、TAMA猫基金にご支援下さったり、TAMA猫Shopで来年のカレンダーを買われたり(多摩川猫の救済基金になります)、宜しくお願いします。 
→ http://www.top-virtual.com/kabuto/diarypro/  (小西さんのブログの右上の「BACK」をクリックすると、HPが読めます。)

それでは、パーキンソン病友の会へ寄稿した文の続きです。

『父を亡くして思うこと』(3/4)

父は急性期病院に入院したものの、口から食べることができないと判断されて、私が不在時に経鼻栄養となっていました。私としては、もっと嚥下リハビリを施してもらえないものか不満がありましたが、担当医は「言語聴覚士がそう判断したのだから。」、と熱心にリハビリをしてくれるようには見えませんでした。
その頃の父は、「口から食べたい」、と毎日言って医師にも訴えましたが、医師からは、「伊藤さん、伊藤さんはもう食べられないんですよ!」と大声で言われ(怒鳴られ、といった方がいいかもしれません。)、ショックを受け黙り込んだ父の顔を忘れることができません。救急病院の医師は忙しく仕方ないと思いますが、もう少し優しい言葉を本人が納得するようにかけられないものか、と悲しくなりました。
父は、とにかく口から食べたがっていました。自分が食べたいものを私にメモさせ、それをまだ入所中になっているホームが作ってくれたら、自分は食べられると思う、と言いました。そしてもしそれでも食べられないのだとしたら、もう自分は死ぬよ、と真顔で私を見つめて言いますので、縁起でもない、と思ったのを覚えています。

けれど結局父は9月22日の入院から12月23日に亡くなるまで、何か食べさせてもらえることはありませんでした。どうせ亡くなってしまうなら、むせてもいいから、肺炎になってもいいから、入院中に1度でも何か好きなものを食べさせたかったという思いがあります。間違った思いなのかもしれませんが。人はやはり自分の口で食べられることこそが幸せなのだ、と父から教わった気がします。

父が経口栄養を望む以上、それをかなえる唯一の道は胃瘻でした。「胃瘻で体力が回復したら、リハビリしていつかは経口と胃瘻と併用できたらいいね。」、そう父も私も思うようになりました。しかし入院中の急性期病院では胃瘻はしないという方針でしたし(体力が持たないだろうとのこと。けれど経鼻のままもリスクがあるし、経鼻をはずしたら老衰死を迎える、と言われていました。つまり、悲観的な道しか示唆されていませんでした。)、肺炎の治療は終わったので早く退院してほしいと言われていて、療養型病院に移りました。
そこで主治医となった外科の先生に、父がこの肺の状態で転院してきたことに驚かれましたが、父の気力と頑張りでなんと回復してきて、胃瘻手術を受けるまでになったのです。主治医は、「お父さんの気力のおかげです。」と喜んで下さいました。私もここに転院してきて良かった、と喜びました。そして胃瘻造設手術の日は、12月9日と決まりました。

転院後も何回か肺炎を起こしながら、それらを気力で全てクリアしてきた父は、胃瘻手術を心待ちにしていました。その先にある、口から再び食事を取ること、を楽しみにしていたのです。
そして手術も成功、経過も順調とのことで私は安心しました。ただ父だけは、「経過順調よ。」と私が言っても、「そうかなあ?」と首をかしげておりました。実は父自身は、抜糸前の傷が痛いそうでした。とはいえ手術後2週間近くたった21日に主治医と面談した時も、これから離床を進めリハビリしていきましょう、と前向きな話でしたし、父も主治医に「頑張っていきましょうね。」と言われ、笑顔で頷いていたのです。ところが・・・

翌22日に発熱、痰がすごく出て、23日(祝日)には血圧が低くなりました。安心して自宅で用事をしていた私は、夕方病院からの連絡で驚き駆けつけました。すると血圧も戻り安定したので、東京の自宅に残してきた家族が心配で帰宅しました。実は私の夫は脳卒中の後遺症で、高次脳機能障害者なのです。
帰る前に看護師さんから、翌24日の午前に主治医との面談予約が入れられ、なぜ血圧が低くなったのか尋ねるよう言われました。つまり翌日午前まで父は亡くならない、という看護師さんの見立てだったのです。私も血圧が低くなることは危険なことだ、という認識がなく、帰宅してしまいました。

しかし帰宅して1時間、父の脈がなくなってきた、危ない、という電話が又その看護師さんから入ったので、何が何だかわからないまま東京の自宅から横浜の病院まで、雨の夜中タクシーで飛んでいきましたが、最期に間に合わなかったのです。まだ温かい父の顔を触り信じられない思いで、「胃瘻もして、これからじゃない!死んじゃダメだよ!」と私がいくら叫んでも、父は目を開けてくれませんでした。私は悪夢ではないか?とただ呆然とするだけでした。ただ、病院は実家からすぐでしたので、母が間に合ったことだけがせめてもの救いでした。母が「私が来るまで待っててくれたの?」と尋ねますと、父は頷いたそうですから、それは本当に良かったです。
今も父の死を家族は納得できていませんが、一番無念だったのは、回復を信じて胃瘻手術まで受け、前だけを見つめていた父ではないでしょうか。父のことを考えますと、すぐ心乱れ息苦しくなりますが、父の、最後まで諦めない毅然とした生き方を尊敬し、その姿勢をしっかり受け継いでいこうと思っております。

さて、父の死後わかったことですが、父の急変した22日と23日に主治医が不在で、看護師さんたちから父の急変についての連絡もいっていなかったとのことでした。父が亡くなるほど悪いと判断されなかったからのようですが、もし連絡がいって主治医から治療を受けていたなら、父は今も生きていたのでは、という思いに今も苦しんでいます。あるいは、父が亡くなったのは運悪く祭日でしたが、宿直医が皮膚科の先生でなくて内科か外科の先生でしたら、なにか手立てをしてくれたのではとも思います。これも療養型病院の限界とのことで、そこを選んだ私の責任だと思うと、父に申し訳ない思いでいっぱいですが、主治医の先生はよくやってくれましたし、もう運が悪かった、と思うしかありません。
ああすればよかったのでは、こうすればよかったのでは、ということばかりをずっと考えている中で、最後は「でも仕方なかった、これが最善であった。」、と自分に言い聞かせるように最近はしています。そうでもしないと、いつまでたっても苦しくて仕方ないのです。(4/4に続く)