今日も寒かったですが、昨日はすごく寒かったです。結局予報通り、54年ぶりの降雪となった都心一帯。この冷たい雪の中、屋根のないところにいる多摩川の猫たちはどんなに寒い思いをして濡れ続けていることでしょう。子猫だと、体力がなくて衰弱し、命が消えてしまうのではないでしょうか(涙)。多摩川の全流域に、猫が雨宿りできる猫小屋をあちこちに置いてあげたい・・・。
朝のうちは雨だったので、会社へ行くコウジさんを駅まで車で送りました。その後雪の中をウメと散歩をし、お昼には12月1日に20歳になるワッチを祝うために、車で昼食に出かけ、帰ってからまたウメの散歩。散歩から戻ると、夜と翌朝の食料の買い出しにスーパーへ、雪がやんだ暗闇の中自転車で出かけ、なんやかやで悪天候の中、外にばかりいた1日で、もう私は疲れて夜は早々に寝てしまいました。
本当は、ワッチの二十歳のお祝いはコウジさんとワッチと私の3人でしたかったのですが、誕生日当日もその週末も、その前の週末(つまり明日あさって)も、ワッチは用事が入っているため、ワッチが「この日なら・・・」と指定していた昨日に、2人で簡単なお祝いをしたのでした。
実は、雪で外出が面倒になった私は、「こんな寒い雪の日に、わざわざ出かけなくてもいいんじゃない?誕生祝は12月中にすればさ~。」と言ったのですが、ワッチは「何のために、月曜日に出たレポートを必死に仕上げて翌日の火曜日に提出したと思う?今日は実験がなくなったので、大学へはレポート提出だけのために行くはずだったんだよ。でも今日フリーにして出かけられるようにするために頑張ったんだよ。なのに・・・」とつまらなそうにボソリと言うので、「わかった、わかった。」と出かけたのでした。 まあ、本当は渋谷にも出る予定だったのですが、雪だったのでそれはやめ、昼食だけのたった2時間のお出かけでしたけれど。
こうして二十歳になっても親と出かけたがるくらい、ワッチが素直な子に育ってくれたことを喜びましょう。
ところで、嬉しいことがありました。
コウジ村から、このたびめでたく就労が決まった人が出たのです。
その方は、20代の息子さんが当事者で、息子さんは中学生の時に交通事故に遭って高次脳機能障害を負ってからも、高校、大学と頑張って卒業。障害者枠の契約社員で1年半働いたものの、9月に更新とならず、就職活動中でした。
たまたま8月にあったコウジ村の集まりで、そこに参加していたほかのコウジ村の方と会い、その方が又たまたま障害者募集をしていた会社を紹介して下さり、ご本人の力と、ご両親の頑張りと、できたばかりの就労移行支援事業所の熱心なご支援によって、就労に結び付いたのでした。
勿論、ご本人のお人柄や持ち前の能力が就労成功のポイントではありますが、こうして実際にコウジ村がお役に立てたことで、コウジ村を始めてよかった~、と思いました。今までコウジ村に関係なく、入会(入村?)後就職が決まった方、復職された方も多いですが、コウジ村の存在が就労に具体的に関われたのは、初めてのことだと思います。多分。
Yさん、是非体調に留意しながら、無理のないペースで頑張って下さいね。会社と就労移行支援事業所の方々にも、どうかYさんのご支援を引き続き宜しくお願いします。この事業所の職員の方々は、私の多摩市講演にも、鶴ヶ島市講演にも聴きに来て下さったんですよ。すごく嬉しく、頼もしく感じました。有難うございました。
それではパーキンソン病友の会への寄稿文の、最後の部分です。
『父を亡くして思うこと』(4/4)
以上のことから、私が父の死までの経緯を通してわかったことで、周りに知らせたいことをまとめますと、
①有料老人ホームでは、パーキンソン患者は多くの認知症患者の中に紛れ、同じような食事介助を受けていると誤嚥性肺炎になる(こともある)。なので本人も家族も肺炎にならないよう十分気を付けた方がいい。
②有料老人ホームで医師不在の時間帯(ほとんどの時間)、急病になっても救急車ですぐ病院へ運ぶなどの適切な処置がなされるとは限らない。様子見をされて重篤化することもあるので、家族はホームから様子が普段と違うという連絡を受けた時は、慎重に迅速に判断、行動した方がいい(救急車を呼んで下さい、とホームに頼んだり、実際様子を見に行ったり)。良心的なホームは病気や怪我の連絡をすぐくれるが、そうでないと連絡さえくれないかもしれない。
③胃瘻手術は比較的簡単で安全と言われているが、手術後の傷が痛くて呼吸が浅くなり、痰を切れずに肺炎が悪化、亡くなることもある。だから手術後も安心せず様子をよく見ていたほうがいい。
④療養型病院に入院中、休日や主治医不在時に急変しても、主治医に当然連絡がいっているものと思ってはいけない。丸2日間連絡がいっていなくて、結局適切な治療をなんら受けることなく亡くなってしまうこともある。家族は、「主治医にちゃんと連絡いってますか?」と確認した方がいい。
もし連絡がいっていれば、主治医がそこにいなくても、何らかの処置を指示できたはずで、父の場合は「イノバン」という強心剤を使ったはずだったそうです(主治医談)。また、かりに助からなかった命だったとしても、最期の看取りは主治医にして頂きたかったという思いがあり、それが叶わず残念です。主治医不在の中、父は不安な気持ちで亡くなったのではないか、と思うからです。けれどこうして父の実例を広く知って頂き、ほかの方の症状悪化や落命を防ぐことに役立つことができたら、亡くなった父も家族も嬉しく思います。
ところで、父は亡くなる1か月ほど前から、痰がからむのか、声が聞き取りづらくなり、かすれて聞こえないことが増えました。父は何かを話したがり、懸命に話すのですが、わかりませんでした。元気になったらゆっくり聞くつもりでしたので、真剣に聞き取らないうちに亡くなってしまい、結局何を話したかったのかわからないことが大変残念です。
そんな時、最近ですが、「かながわ難病相談・支援センター」から送られてきた『パーキンソン病・脊髄小脳変性症・多系統委縮症に対する神経リハビリテーション』冊子の22ページに、「コミュニケーションエイド」という話が載っているのを読みました。その中で、「文字盤で、視線でコミュニケーションのやり取りをする」ものがある、とあります。もしこのようなものが安価で借りられるのでしたら、父に使ってもらいたかった、そうしたら父はどんなに喜び、私もどんなに嬉しかったことか、父が最後に話したかったこともわかったのに、と思いました。
父が話がうまくできなくなってから亡くなるまであっという間でしたので、ゆっくり調べたり探したりする時間がありませんでした。パソコンで調べたのですが、うまく見つけられなかったのです。ALS患者がそのような器具を使っているのは知っていましたが、どうやって入手できるのかわかりませんでしたし、多分入手できないと思っていました。このような道具があるということの周知が必要だと思います。
同じく、「あったら良かった」と思うものは、腰回りの太いズボンでした。腰が曲がってしまった父は、小柄なのにLサイズのズボンでも「きつい」と困っていました。父が「ああ楽だ。」と言ってくれるズボンはすごく大きなサイズとなり、裾を短くしなければなりませんでした。体型が大きく変化してしまった人が、楽に着られる服が開発されるといいと思います。そして普段着に何着も必要ですので、オーダーメードのような高価ではない方が助かります。
父は78歳という高齢で発症し、母は76歳でしたが、現在この母はアルツハイマーと診断されています。父を介護していた頃から、時々おかしいな、と思うことがありましたが、私は父のことにばかり気をとられ、母を病院へ連れて行くのが遅れました。この母との2人暮らしが、父を介護する面、父の病状を認識する面などで、少なからず影響したのでは、と思っています。
また父が4年間でパーキンソン病で使った薬は、メネシットとニュープロパッチとミラベックス(体がどんどん傾いてきたため、中止)の3種類だけでした。ほかの皆さんはもっと使われているのではないか、と不安でしたが、結局増えませんでした。医師に尋ねますと、「合わない時は薬を変えるけれど、そうでない場合は合っているということなので、このままでいい。」とのことでしたが、そういうものなのでしょうか。今の薬もいいけれど、さらにもっと合う薬に変えましょう、ということはないのでしょうか。
また父は目立ってウエアリング・オフというものがありませんでしたし、ジスキネジアというものもありませんでした。幻視や幻覚、物忘れなどは時々ありましたが、最後まで頭はしっかりしておりました。
父は残念ながら亡くなりましたが、今後もパーキンソン病の治療が進み、病院や施設で、そして願わくば住み慣れた自宅で、患者本人が納得し満足できる生活を最後まで送れる、患者とその家族の要望に耳を傾けてくれる世の中になることを心から願っています。
私もできることなら、父のそばで父を介護したかった、という思いがあります。父も亡くなるなら、自宅を望んだでしょう(まだ自分でも亡くなるとは思っていなかったのですが)。父の進行がこんなに早くなければ、いずれは自宅(バリアフリーにした実家)で、訪問医療をお願いしたいと思っていました。それらが皆叶わず、ただただ残念で、写真の父に話しかけている毎日です。
最後になりましたが、貴会の益々の発展をお祈り致します。(終わり)
朝のうちは雨だったので、会社へ行くコウジさんを駅まで車で送りました。その後雪の中をウメと散歩をし、お昼には12月1日に20歳になるワッチを祝うために、車で昼食に出かけ、帰ってからまたウメの散歩。散歩から戻ると、夜と翌朝の食料の買い出しにスーパーへ、雪がやんだ暗闇の中自転車で出かけ、なんやかやで悪天候の中、外にばかりいた1日で、もう私は疲れて夜は早々に寝てしまいました。
本当は、ワッチの二十歳のお祝いはコウジさんとワッチと私の3人でしたかったのですが、誕生日当日もその週末も、その前の週末(つまり明日あさって)も、ワッチは用事が入っているため、ワッチが「この日なら・・・」と指定していた昨日に、2人で簡単なお祝いをしたのでした。
実は、雪で外出が面倒になった私は、「こんな寒い雪の日に、わざわざ出かけなくてもいいんじゃない?誕生祝は12月中にすればさ~。」と言ったのですが、ワッチは「何のために、月曜日に出たレポートを必死に仕上げて翌日の火曜日に提出したと思う?今日は実験がなくなったので、大学へはレポート提出だけのために行くはずだったんだよ。でも今日フリーにして出かけられるようにするために頑張ったんだよ。なのに・・・」とつまらなそうにボソリと言うので、「わかった、わかった。」と出かけたのでした。 まあ、本当は渋谷にも出る予定だったのですが、雪だったのでそれはやめ、昼食だけのたった2時間のお出かけでしたけれど。
こうして二十歳になっても親と出かけたがるくらい、ワッチが素直な子に育ってくれたことを喜びましょう。
ところで、嬉しいことがありました。
コウジ村から、このたびめでたく就労が決まった人が出たのです。
その方は、20代の息子さんが当事者で、息子さんは中学生の時に交通事故に遭って高次脳機能障害を負ってからも、高校、大学と頑張って卒業。障害者枠の契約社員で1年半働いたものの、9月に更新とならず、就職活動中でした。
たまたま8月にあったコウジ村の集まりで、そこに参加していたほかのコウジ村の方と会い、その方が又たまたま障害者募集をしていた会社を紹介して下さり、ご本人の力と、ご両親の頑張りと、できたばかりの就労移行支援事業所の熱心なご支援によって、就労に結び付いたのでした。
勿論、ご本人のお人柄や持ち前の能力が就労成功のポイントではありますが、こうして実際にコウジ村がお役に立てたことで、コウジ村を始めてよかった~、と思いました。今までコウジ村に関係なく、入会(入村?)後就職が決まった方、復職された方も多いですが、コウジ村の存在が就労に具体的に関われたのは、初めてのことだと思います。多分。
Yさん、是非体調に留意しながら、無理のないペースで頑張って下さいね。会社と就労移行支援事業所の方々にも、どうかYさんのご支援を引き続き宜しくお願いします。この事業所の職員の方々は、私の多摩市講演にも、鶴ヶ島市講演にも聴きに来て下さったんですよ。すごく嬉しく、頼もしく感じました。有難うございました。
それではパーキンソン病友の会への寄稿文の、最後の部分です。
『父を亡くして思うこと』(4/4)
以上のことから、私が父の死までの経緯を通してわかったことで、周りに知らせたいことをまとめますと、
①有料老人ホームでは、パーキンソン患者は多くの認知症患者の中に紛れ、同じような食事介助を受けていると誤嚥性肺炎になる(こともある)。なので本人も家族も肺炎にならないよう十分気を付けた方がいい。
②有料老人ホームで医師不在の時間帯(ほとんどの時間)、急病になっても救急車ですぐ病院へ運ぶなどの適切な処置がなされるとは限らない。様子見をされて重篤化することもあるので、家族はホームから様子が普段と違うという連絡を受けた時は、慎重に迅速に判断、行動した方がいい(救急車を呼んで下さい、とホームに頼んだり、実際様子を見に行ったり)。良心的なホームは病気や怪我の連絡をすぐくれるが、そうでないと連絡さえくれないかもしれない。
③胃瘻手術は比較的簡単で安全と言われているが、手術後の傷が痛くて呼吸が浅くなり、痰を切れずに肺炎が悪化、亡くなることもある。だから手術後も安心せず様子をよく見ていたほうがいい。
④療養型病院に入院中、休日や主治医不在時に急変しても、主治医に当然連絡がいっているものと思ってはいけない。丸2日間連絡がいっていなくて、結局適切な治療をなんら受けることなく亡くなってしまうこともある。家族は、「主治医にちゃんと連絡いってますか?」と確認した方がいい。
もし連絡がいっていれば、主治医がそこにいなくても、何らかの処置を指示できたはずで、父の場合は「イノバン」という強心剤を使ったはずだったそうです(主治医談)。また、かりに助からなかった命だったとしても、最期の看取りは主治医にして頂きたかったという思いがあり、それが叶わず残念です。主治医不在の中、父は不安な気持ちで亡くなったのではないか、と思うからです。けれどこうして父の実例を広く知って頂き、ほかの方の症状悪化や落命を防ぐことに役立つことができたら、亡くなった父も家族も嬉しく思います。
ところで、父は亡くなる1か月ほど前から、痰がからむのか、声が聞き取りづらくなり、かすれて聞こえないことが増えました。父は何かを話したがり、懸命に話すのですが、わかりませんでした。元気になったらゆっくり聞くつもりでしたので、真剣に聞き取らないうちに亡くなってしまい、結局何を話したかったのかわからないことが大変残念です。
そんな時、最近ですが、「かながわ難病相談・支援センター」から送られてきた『パーキンソン病・脊髄小脳変性症・多系統委縮症に対する神経リハビリテーション』冊子の22ページに、「コミュニケーションエイド」という話が載っているのを読みました。その中で、「文字盤で、視線でコミュニケーションのやり取りをする」ものがある、とあります。もしこのようなものが安価で借りられるのでしたら、父に使ってもらいたかった、そうしたら父はどんなに喜び、私もどんなに嬉しかったことか、父が最後に話したかったこともわかったのに、と思いました。
父が話がうまくできなくなってから亡くなるまであっという間でしたので、ゆっくり調べたり探したりする時間がありませんでした。パソコンで調べたのですが、うまく見つけられなかったのです。ALS患者がそのような器具を使っているのは知っていましたが、どうやって入手できるのかわかりませんでしたし、多分入手できないと思っていました。このような道具があるということの周知が必要だと思います。
同じく、「あったら良かった」と思うものは、腰回りの太いズボンでした。腰が曲がってしまった父は、小柄なのにLサイズのズボンでも「きつい」と困っていました。父が「ああ楽だ。」と言ってくれるズボンはすごく大きなサイズとなり、裾を短くしなければなりませんでした。体型が大きく変化してしまった人が、楽に着られる服が開発されるといいと思います。そして普段着に何着も必要ですので、オーダーメードのような高価ではない方が助かります。
父は78歳という高齢で発症し、母は76歳でしたが、現在この母はアルツハイマーと診断されています。父を介護していた頃から、時々おかしいな、と思うことがありましたが、私は父のことにばかり気をとられ、母を病院へ連れて行くのが遅れました。この母との2人暮らしが、父を介護する面、父の病状を認識する面などで、少なからず影響したのでは、と思っています。
また父が4年間でパーキンソン病で使った薬は、メネシットとニュープロパッチとミラベックス(体がどんどん傾いてきたため、中止)の3種類だけでした。ほかの皆さんはもっと使われているのではないか、と不安でしたが、結局増えませんでした。医師に尋ねますと、「合わない時は薬を変えるけれど、そうでない場合は合っているということなので、このままでいい。」とのことでしたが、そういうものなのでしょうか。今の薬もいいけれど、さらにもっと合う薬に変えましょう、ということはないのでしょうか。
また父は目立ってウエアリング・オフというものがありませんでしたし、ジスキネジアというものもありませんでした。幻視や幻覚、物忘れなどは時々ありましたが、最後まで頭はしっかりしておりました。
父は残念ながら亡くなりましたが、今後もパーキンソン病の治療が進み、病院や施設で、そして願わくば住み慣れた自宅で、患者本人が納得し満足できる生活を最後まで送れる、患者とその家族の要望に耳を傾けてくれる世の中になることを心から願っています。
私もできることなら、父のそばで父を介護したかった、という思いがあります。父も亡くなるなら、自宅を望んだでしょう(まだ自分でも亡くなるとは思っていなかったのですが)。父の進行がこんなに早くなければ、いずれは自宅(バリアフリーにした実家)で、訪問医療をお願いしたいと思っていました。それらが皆叶わず、ただただ残念で、写真の父に話しかけている毎日です。
最後になりましたが、貴会の益々の発展をお祈り致します。(終わり)
コメント
コメント一覧 (4)
昨夜、何気なくつけていたテレビで、歌手のイルカさんが出ていました。亡くなったご主人がパーキンソン病で20年に及ぶ介護をされていたとのことでした。歌手生活の裏に介護生活があったとは信じられない思いでした。
礼さんが書かれた手記、とても生々しく読ませていただきました。多くの人に読んで頂き、それぞれの立場で考えていただきたい事が沢山詰まっていると思いました。
危ない状態だと言われたので急いで駆け付けました。
埼玉にもう一人娘がいるが連絡した方が良いかと尋ねると、まだ大丈夫ですよと・・・。
看護師は、一緒に駆け付けた姉に前開きの下着を用意するよう指示しました。
下着を持ってくるよう指示する位だからと安心した私達は一度自宅に戻ったのです。それが、大きな間違いでした。
数時間後、亡くなりましたと電話があったのです。
あの時、何故自宅に帰ってしまったのか。
最期の時に傍にいてあげられなかった自分を責めましたが、いくら責めても
後悔しても、もうその瞬間には戻れません。
医師や看護師の言葉だけで判断してはいけない事を学びました。
母は父が大好きでした。
「お父さんの事頼んだよ」と天国から言ってる気がします。
「大丈夫だよ。安心してね。」それが母への償いです。
医師の乱暴な物言いどうにかしてほしいですね。
主人のガンが見つかった時、主治医は大声で何度も言いました。
「前立腺ガンは死にますよ!!」って。
主人の顔が一瞬で暗くなって辛かったです。
「大丈夫ですよ。前向きに頑張りましょう。」って何故言えない?って思いました。
言葉って大事ですよね。
特に病を抱えてる者にとっては猛毒になります。
患者の心に寄り添ってくれる医師が増えるといいですね。
次男さんとご主人が会話されるのは、いいですね。優しい次男さんですね。あとは、ゆっくり話してくれるといいですね(笑)。父の話も、読まれる方には重いかな、と思うのですが、もしかしたら役に立つ経験談かもしれない、と思って書きました。次のブログで、もうちょっとつけ足しますね。
お母様の時も、そうだったのですね。うちだけではなかった、と知り、少し心が落ち着きました。有難うございます。けれど、それはひどいですね。看護婦さんは亡くなると思っていなかったようで、仕方なかったのかもしれませんが、私たち家族にとっては、取り返しのつかない大問題ですよね。ここを読まれる方たちには、この点について注意を促したいですね。皆様、ご家族が危なそうな時は、帰ってはいけません。最期に立ち合なくなります。
・・・でも、お母様(私の場合は父)が言いたかったことは、わかる気がしますよね。だからその意に沿って生きて行きたい、と思っています。
ところで、ご主人は具合はいかがですか?信頼できる医師に、主治医になってもらいたいですよね。それだけでも、半分は治る気がします。